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屋鋪要は関根潤三の育成術を令和でも通用すると断言「怖かったけど、理不尽ではなかった」

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:屋鋪要(後編)

 大洋ホエールズの監督に就任した関根潤三は、「若手育成」にチーム浮上の活路を見出していた。自らのことを「自分は勝たせる監督ではなく、育てる監督だ」と自負していた関根は、屋鋪要、そして高木豊に白羽の矢を立てたのである。屋鋪は言う。

「若手が育てばチームは活気づく。そんな選手が多ければ多いほどチームは強くなる。でも、なかなかそんな人材はいるものじゃない。それでも関根さんは、若手に期待し、自分が目をかけた選手の活躍を喜んでくれる、そんな監督でした。それが将来的にチームのためになる。自分が監督を辞めたあとのことを見据えていたんだと思います」

82年から3年間、大洋の指揮を執った関根潤三氏(写真左) photo by Kyodo News82年から3年間、大洋の指揮を執った関根潤三氏(写真左) photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る

【有望な若手ふたりを競わせながら育てる】

 関根の指導理念のひとつに「有望な若手を競わせて、さらなる成長を促す」というものがある。根本陸夫監督の参謀となった広島東洋カープ時代には、若かりし頃の山本浩二と衣笠祥雄。読売ジャイアンツヘッドコーチ時代には、中畑清と篠塚利夫(現・和典)。のちのヤクルトスワローズ監督時代には、池山隆寛と広沢克己(現・広澤克実)。そして、ホエールズ時代は屋鋪と高木。有望な若手を競わせながら成長を促す。そんな指導方針を採っていた。

「たしかに、関根さんは若手を競わせることで競争意識をあおっていました。ただ、僕自身は高木さんには勝てない。彼の選球眼、そしてミート力は最高でした。センスでは勝てないけど、それでも『絶対に負けたくない』という思いはいつも持っていました」

 まさに、関根の狙いどおりだった。類まれなるバッティングセンスを持ち、中央大学からドラフト3位でプロ入りした高木は、高卒ドラフト6位の屋鋪にとって決して負けられない存在だった。年齢は高木の方が1歳上だが、プロ入りは屋鋪の方が3年早かった。「プロとしては先輩だ」という意地もあった。

「センスでは勝てないのはわかっていたけど、内心では『1年だけでも打率を上回りたい』という思いはずっと持っていましたね。結果的には何度か、高木さんの成績を上回りました。チーム内の競争は間違いなくありましたね」

 屋鋪と高木の間で繰り広げられたこうした競争心こそ、関根が望んでいた「若手育成」の要諦だったのだ。

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著者プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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