屋鋪要は関根潤三との出会いでプロ野球人生が一変「あのままだったら守備固めや代走要員のまま現役を終えていた」
微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:屋鋪要(前編)
1980年代、近藤貞雄監督時代の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)において、高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」の一角を占めた屋鋪要。俊足、強打を武器に一時代を築いた屋鋪だが、「僕がプロ野球の世界で生きていくきっかけをもらったのは関根潤三監督」と振り返る。
関根潤三監督就任2年目の83年、初めて規定打席に到達した屋鋪要 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る
【関根潤三のアドバイスで打撃開眼】
「関根さんが自由にやらせてくれなかったら、僕は守備固めや代走要員のまま現役を終えていたと思います。関根さんが、僕を世に出してくれた。関根さんが僕をレギュラーにしてくれたことで、のちの人生、そして今の生活につながっています。野球界において、それなりの地位をつくらせてくれた方、それが関根さんです」
ホエールズ、ベイスターズ、そしてジャイアンツで18年間の現役生活を送った。引退後はジャイアンツのコーチも務め、現在でも少年野球の指導に汗を流している。その礎となったのは関根潤三監督時代にある。屋鋪はそう考えている。
関根が大洋ホエールズの監督を務めたのは1982年から84年の3シーズンだった。関根監督が誕生した82年、屋鋪はプロ5年目、23歳を迎える頃だった。この年、屋鋪は95試合に出場している。それ以前の80年、81年は105試合に出場し、一軍での出番を与えられてはいたものの、本人の言葉にあるように「守備固めや代走要員」での出場が多く、「レギュラー」と呼べる状況にはなかった。
「でも、関根さんは就任早々、僕にレベルスイングを指導してくれました。それまではとにかく、『足を生かすために上から叩きつけろ』という指導ばかりだったのに、『無理に叩きつける必要はない、レベルスイングでいいんだ』と言ってくれたおかげで、バッティングも向上してレギュラーになることができた。それはやっぱり、関根さんが監督だったから可能になったんだと思います」
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著者プロフィール
長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。