屋鋪要は関根潤三との出会いでプロ野球人生が一変「あのままだったら守備固めや代走要員のまま現役を終えていた」 (2ページ目)
球界屈指の俊足を生かすためには「とにかく叩きつけてゴロを打て」というのは、ある意味では至極当然の考え方である。前任の別当薫監督は、屋鋪の足を生かすためにスイッチヒッター転向を指示し、叩きつける "ダウンスイング"を命じた。
「でも、僕はバッティングの基本はレベルスイングにあると思っていましたから、"上から叩きつける"ということに懐疑的でした。そんな思いがあるから、どうしても心から納得して練習ができない。当然、それではなかなか結果が出ない。そんな悪循環に陥っていたところを関根さんの言葉で救われたんです」
【飛躍のきっかけは地獄の伊東キャンプ】
屋鋪の口からは、関根に対する感謝の思いが次から次へとあふれ出てくる。あらためて両者の出会いとなった82年、年明けの出来事から振り返りたい。
「あの頃、つきっきりで指導してくれたのがコーチになったばかりの松原誠さんでした。年が明けたばかりの1月3日に集合がかけられました。松原さんか関根さんの知人の家だったのかはわからないけど、誰かのお宅の庭にネットを張って、高木豊さんたちとひたすらバッティング練習をしました。夜も、食事後にボールを打つ。それが1月15日ぐらいまで続いて、そこから静岡草薙キャンプに臨みました」
つきっきりで指導してくれたのは、現役を引退し、指導者の道を歩み始めたばかりの松原だった。決して関根ではない。横浜・保土ヶ谷の室内練習場はもちろん、松原の知人宅を利用して、徹底的にバットを振り込んだ。そして、「その指示をしたのは関根さんだった」と屋鋪は語る。
「実際の指導は松原さんだったけど、その指示を出していたのは関根さんだったと思います。関根監督時代、春は草薙、秋は伊東でキャンプをしました。特に印象深いのは伊東キャンプです。ランニングやうさぎ跳び、サーキットトレーニングなどの基礎練習から始まり、徹底的に特打、特守です。ひたすらバットを振って、ひたすらノックの嵐を浴びる。その繰り返しでした。それは関根さんの指導方針でした」
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