屋鋪要は関根潤三との出会いでプロ野球人生が一変「あのままだったら守備固めや代走要員のまま現役を終えていた」 (3ページ目)
関根にゆかりのある選手たちに話を聞いていると、必ず「地獄の伊東キャンプ」のエピソードが披露される。79年、ジャイアンツ監督時代の長嶋茂雄が江川卓、西本聖、中畑清、篠塚利夫(現・和典)ら期待の若手を徹底的に鍛え上げた、あの伝説の特訓が有名だ。関根もまた、ジャイアンツヘッドコーチ時代に伊東キャンプを経験していた。
「今から考えると非科学的なトレーニングも多かった。うさぎ跳びなどは1、2、3と跳んでいくんだけど、最後に深くしゃがんでジャンプをする。それをレフトからライトまで何往復も繰り返す。あの練習のせいで、山下(大輔)さんの膝がおかしくなりました。僕はまだ若かったから耐えられたのかもしれないけど......」
現在の視点から見れば、それは確かに「非科学的」と言えるだろう。82年秋、山下はすでに30歳で、ベテランの域にさしかかろうとしていた。それでも関根は「おまえが参加することに意味があるんだ」と告げたという。のちに山下は伊東キャンプを振り返って、「30歳でよく耐えられたと思います」と笑っている。そして、屋鋪もまた「あの練習にはそれなりの意味があった」と振り返る。
「今、根性論を否定する人はたくさんいます。でも、ある程度の根性がなければプロの世界で活躍することはできないですよ。あれだけキツい伊東キャンプは耐えられないですよ。あそこは宿舎からグラウンドまで長い階段を降りるんですけど、もうヘトヘトで満足に上り下りできない。泥だらけ、汗だらけだから、湯船も相当汚かったでしょうね(笑)」
【レギュラーとしての地位を確立】
関根監督初年度となる82年シーズンは、屋鋪にとって波乱万丈の1年となった。開幕直後から打棒は冴えわたり、一時は4割近いハイアベレージを記録したものの、7月のスワローズ戦でダイビングキャッチを試みた際に左肩を強打。後半戦でのジャイアンツ戦でも同じ箇所を痛め、左肩脱臼の重傷を負ってしまったのだ。そしてこの年のオフ、屋鋪は「地獄の伊東キャンプ」を経て、さらなる成長を遂げるのである。
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