屋鋪要は関根潤三との出会いでプロ野球人生が一変「あのままだったら守備固めや代走要員のまま現役を終えていた」 (4ページ目)
「82年は、かなり出番は増えましたけど、まだまだ『オレはレギュラーだ』という思いはありませんでした。でも、この年の秋に伊東キャンプを経験して手応えをつかんだ。ようやくレギュラーとしての自覚が出てきたのが、関根さんの2年目、83年シーズンのことでしたね」
この年、屋鋪は初めて規定打席に到達、打率・287を記録する。前述した「レベルスイングを意識した」ことが奏功したのである。この年、屋鋪は「期待の若手選手」から、ついに「レギュラー選手」の座をつかんだのである。
「たとえ4タコを喫しても、『明日2本打てばいい』と思えるようになったのが、関根監督2年目のことでした。たとえミスをしても、スタメンから外される心配がないから、前向きに次の試合に臨むことができる。そう考えられるようになったことで、落ち着いてプレーできるようになりました」
常々、「私は《勝たせる監督》ではなく、《育てる監督》だ」と口にしていた関根は、その言葉どおりにどんなに結果が出なくても、辛抱強く使い続けた。そして、その期待に屋鋪は見事に応えたのだ。
関根監督時代のホエールズは82年・5位、83年・3位、84年・6位に終わっている。83年のAクラス入りは、前年秋の伊東キャンプの成果だったと言えるだろう。この間、関根は屋鋪だけでなく、ベテランの基満男に代わって高木豊も抜擢している。その結果、この連載の「基満男編」で言及したように、基との間に軋轢が生じることになったものの、それでも関根は、高木に、そして屋鋪にチャンスを与え続けたのである──。
関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。
屋鋪要(やしき・かなめ)/1959年6月11日、大阪府生まれ。三田学園高(兵庫)から77年のドラフトで大洋(現・DeNA)から6位指名を受けて入団。高木豊、加藤博一とともに「スーパーカートリオ」として活躍。84年から5年連続でゴールデングラブ賞を獲得し、86年から88年まで3年連続盗塁王に輝く。94年から2年間巨人でプレーし、95年に現役引退。引退後は巨人のコーチ、解説者、野球教室など精力的に活動し、2020年から社会人軟式野球の監督を務めている。鉄道写真家としても活躍している
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著者プロフィール
長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。
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