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江川卓が20奪三振 完敗の敵将はなんとか1安打で「完全試合にならなくてホッとした」 (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 8回二死から代打で出場した1学年下の宇高隆は、この打席が強烈な印象として記憶に残っている。

「強がりでもなんでもなく、最初はボールが見えていました。『来たっ!』と思ってスイングしたらファウル。それでツーストライクからカーブが来て、体を崩されて空振り三振です。全然見えませんでした」

 試合は3対0で作新の完勝。江川は142球を投げ、被安打1、四球1、奪三振20。四国王者の今治西でさえ、江川に対して手も足も出なかった。

 4番の渡部が、江川との対決の思い出を語ってくれた。

「江川のすごさは言葉では表現しにくいんです。とにかく選手、監督時代も含めて、あれだけ速いボールを投げるピッチャーを見たことがありません。たまに1・2・3のタイミングで打てるピッチャーはいますけど、江川は早い始動で1・2・3とやってもボールはもう目の前ですから。でも甲子園球児として、江川のような伝説的なピッチャーとやれたことは幸せですよね」

 試合後、今治西の監督・矢野正昭はこんなコメントを残している。

「選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」

 じつは矢野はこのセンバツを最後に退任する予定だったが、20三振の雪辱を果たすため、夏まで延期してもらったという。

「このままでは引き下がれません。夏、必ず作新は出てきますから、甲子園で雪辱を果たすまではやらせてください」

 センバツから戻った今治西は、県下屈指の進学校ということもあり、練習に長時間割くことができず、効率のいい練習法を心がけるしかない。4月下旬から新たな練習メニューとして、腕立て、腹筋を各100回ずつ。江川のスピードに負けないためには、パワーをつけるしかないと、矢野は体力強化を図ったのだ。それもこれも、すべては「打倒・江川」のためだった。


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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