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【プロ野球】3度の手術、2度の地獄を越えて 近藤弘樹が「投げられない日々」の先にスタートした第二の野球人生

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

近藤弘樹インタビュー(後編)

前編:ヤクルトを支えた「火消し役」近藤弘樹が振り返る地獄の日々はこちら>>

 2024年に再び支配下登録を目指していた近藤弘樹だったが、3月の教育リーグでの登板のあと違和感を覚えた。キャッチボール中に「あれ、力が弱いなか」と感じ、「ちょっとやめるわ」と切り上げた。同12日の横須賀でのDeNAとの試合は雨天中止となったが、違和感はさらに強いものとなった。

 近藤はこの時のことを、「肩が伸びる感覚があった」と振り返った。

「試合がなくなったので、ピッチングをしておこうと思ったのですが、キャッチボールの時から『ヘンだな』と。ブルペンで立ち投げをしたんですけど、また肩が伸びる感覚があったので、すぐにやめたんです」

今年から楽天のスカウトとして新たなスタートを切った近藤弘樹氏 photo by Shimamura Seiya今年から楽天のスカウトとして新たなスタートを切った近藤弘樹氏 photo by Shimamura Seiyaこの記事に関連する写真を見る

【肩はもう厳しいかな...】

 この日以降、近藤は二軍の戸田球場で、軽めのキャッチボールをする日もあれば、ノースローの日が続いたり、そしてまたキャッチボールをしたりと、その日の状態を見ながらの調整が続いた。

「スローを再開した頃は、すでに3回目の手術が決まっていて、『どうにでもなれ』と気持ちでキャッチボールしていました」

 5月12日の練習前、近藤は練習前に池山隆寛二軍監督(当時)にあいさつ。この光景を、第三者ではあるが「手術するのだな」と沈んだ気持ちで見ていたことを思い出す。

 診断の結果は、右肩下方関節包損傷。全治には1年かかると告げられた。3度目の手術の決断は早かった。

「(手術を)しないと100パーセント投げられなかったので、はい。いろいろ切りましたね。半腱様筋(太もも)の筋肉を切って、ここも(膝の下あたり)切って、さらにここにも傷があります。それらを肩に移植しました。自分のなかでは、最初の手術のほうが痛かったですね。腱や靭帯が切れていた本数が違ったので。3度目の手術は、下方関節包が1本切れていただけだったんです。

 ただドクターからは、『ふつうに野球をしていて切れる場所ではない。ほかの競技ならあるけれど、野球ではアメリカでも前例がほとんどない』と言われました。なんで自分ばかりにヘンなのが来るんだろうと思いましたよ。最初の手術をした場所の下あたりだったので、再建した場所の負荷がどんどん下に来たのかなと......自分を納得させるために、そう解釈ました」

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著者プロフィール

  • 島村誠也

    島村誠也 (しまむら・せいや)

    1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。

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