権藤博が語る、王貞治と江藤慎一との打撃の共通点。「生き残るために変化を恐れない」 (3ページ目)
大黒柱となった江藤の生活は一変した。開幕前はオープン戦で同室となった同期の外野手・横山昌弘に名古屋の繁華街、栄に連れて行かれても琥珀色の液体に口をつけられなかった。
「どうした? ビールは嫌いか。俺のおごりだ。飲め」「いや、これを飲んだことがないんです」
日鉄二瀬時代に嗜んだのは、焼酎かドブロクのみ。初めて口にしたビールの味はこれ以上なく美味で、たちまち1ダースを空けた。プロは結果を出せば、すぐにカネになる。本塁打の賞金が5000円でこれだけでも飲み代は賄えた。さらに人気選手には、酒食をご馳走するタニマチもつく。名古屋ローカルはまたそれが盛んな土地であった。
江藤は酒の味を覚えた。2年目(昭和35年)の成績は打率.252、本塁打は14本。頭打ちと言われる成績であった。ノンプロ時代は日中に仕事をしてから、職場に気を遣って練習に向かい、ヘトヘトになるまでボールを追い、寮に帰れば倒れるように眠るだけであった。しかし、プロはカネも時間もたっぷりとある。ケタ違いの収入がある上に盛り場では、下にも置かない扱いを受ける。かつて才能ある選手たちが、どれだけこの誘惑に堕ちていったことか。
ある夜、江藤が帰宅すると、母が縫物をしていた。すでに時計の針は午前3時を回っている。背を向けたまま針を動かし続ける母は言った。「慎ちゃん、あなたの腕でかせいだお金ですもの、あなたの勝手に使っていいのよ。でも身体だけは大事にしてね。お母さん達は、松橋の方へ帰って、もう一度はじめからやり直しますから」(『闘将 火と燃えて』江藤慎一・鷹書房刊)
急ぎの縫い物など、あるはずもなく、母は諫言(かんげん)のために起きていたのは明白だった。頭から冷水をかけられた思いだった。江藤はこれ以降、翌日に残るような深酒を断った。
入団3年目(昭和36年)は打率.267、本塁打20本と持ち直して初のベストナインを受賞する。
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