権藤博が語る、王貞治と江藤慎一との打撃の共通点。「生き残るために変化を恐れない」 (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤の置かれた当時の環境を拝察するためにこの権藤が入団した年の中日のチーム状況をしばし、記述したい。昭和36年シーズンは江藤の再起、連投上等で投げまくった権藤の他にも、地道な努力が開花した板東が12勝、河村も13勝をあげた。勝率の差で2位に甘んじたが、勝ち星は優勝した巨人よりひとつ上回っており、結果だけ見れば、濃人は評価されて然るべき監督であった。

 しかし、チーム内は不穏な空気にまみれていた。濃人と生え抜きの選手との対立である。チーム改革に乗り出した濃人は、5位に転落していた前年のオフにも大矢根博臣、伊奈努のローテーション投手を放出しており、聖域化されていたレギュラー、地元出身選手にも容赦なくメスを入れた。

 叱咤する言葉も厳しく、4番の森徹にも遠慮会釈がなかった。長嶋茂雄の同期で早稲田大から入団していた森は2年前に本塁打と打点の二冠を獲得しており、スターの地位を確立していた。森は板東同様に旧満州出身で、当地で手広く商売をしていた母親が力士時代の力道山を可愛がり、新京(現・長春)などに巡業に来た際には、何くれと面倒をみていたので、このプロレス界のスーパースターと子どもの頃から親交が深かった。

 契約時には立ち合い人を務め、中日球場の練習にも顔を出す後見人が力道山ということで森は、新人時代から一目も二目も置かれる存在であった。それでも濃人は粗の多い森の打撃にダメを出した。23歳でホームランキングを取ったプライドは傷つけられ、反発する。

 星野仙一が中日や阪神で「血の入れ替え」を行なったように、従来監督は、球団の歴史を分断しても自らが取ってきた手駒で勝負をかけたがるものであり、また12球団一、選手を甘やかすと言われていた東海地方唯一のチームに刺激を与える必要があったとは言え、あまりに感情的にもつれすぎた。濃人と森、井上登、吉沢、横山、広島衛、酒井敏明、石川緑ら、主力との対立は決定的となった。

 結局、森は大洋に、吉沢と甲子園優勝投手の児玉(空谷)泰は近鉄に、石川は阪神に金銭トレードで出されてしまった。酒井と広島は退団というかたちをとった。

 森はこの後、大洋、東京オリオンズと移籍を繰り返すが、4年しか在籍しなかった中日への愛情は強く、引退後に監督兼選手として参加したグローバルリーグ(大リーグに対抗して創設されたもので米国、日本、ドミニカ、ベネズエラ、プエルトリコの5か国で国際リーグ戦を行なうという構想の組織)では、所属の日本チームの名前を東京ドラゴンズと命名している。その愛着からも放逐された無念さは伝わってくる。

 一方で濃人が熊本出身の江藤や久留米出身の権藤を重用したことで、地元記者やファンからはいわゆる濃人によって作られた「九州ドラゴンズ」と揶揄された。

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