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権藤博が語る、王貞治と江藤慎一との打撃の共通点。「生き残るために変化を恐れない」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤は12名の同期のなかでは圧倒的な出世頭となり、『巨人の星』の左門豊作よろしく1年目のオフに家族を熊本から名古屋に呼び寄せた。両親、そして3人の弟である。三男の省三は在籍していた熊本商業から中京商業への転校となった。もちろん野球部入部を踏まえてのものである。省三の当時の述懐。

「とにかく家が貧乏でしたから。サラリーマンの親父の給料が月に1万円くらいで、それで食べ盛りの男4人を育てないといけない。近所に製糸工場の繭を乾燥する乾繭所(かんけんじょ)っちゅう所があったんですが、おふくろがそこで管理人として仕事をすることになり、うちはその工場の一画を住まいに貸してもらったんです。

 その繭は年に2回、乾燥させるんだけど、あとは工場の敷地が全部空いてる。私たちはそこで三角ベースの野球をやって育ったわけです。私も兄のあとを追うように熊本商業に進みました。

 名古屋に引っ越したのは、兄貴が新人のシーズン終わり、私が熊商の1年の12月で中京には翌年の1月から通いました。兄貴はプロでやれるなら、選手寮なんかにいるより、おふくろとおやじを呼んで暮らしたいという気持ちが強くあったんですね。おやじは田舎が好きで嫌がったんですけど。おふくろはもう早く行こうっちゅう感じでした。椙山女学園の裏の借家で家族6人で暮らしました」

 熊商で1年から4番を打っていた省三も中京商業にはカルチャーショックがあったと言う。このチームは1年前(昭和34年)に平沼一夫(後に東京オリオンズ)、杉浦藤文(後に中京高校監督)、石黒和弘(後に東京オリオンズ)らの活躍によって春のセンバツを制している。決勝では高木守道を擁する県立岐阜商業を下しており、深谷弘次監督も当時「歴代最強」と明言していた。

「私の熊商時代は、夏の大会の決勝で末次(利光)さんのいた鎮西に負けて甲子園には行けなかったんですけど、県の代表にもなっていっぱしの選手になっていた気持ちでおったんですよ。それが、兄貴が勧めるのが中京一辺倒で、転校したら、春のセンバツ優勝校じゃないですか。グラウンドに行ったら部員が200人ぐらい固まっていてね。これで3年生が抜けたんだよって言われて、50人そこそこしかいない学校から来た者としては、本当ぞっとしました」

 しかし、省三も地力を発揮する。3年生となった1961年(昭和36年)には主将となり、同期の山中巽(やまなか・たつみ)、1年下の木俣達彦とともに主力を担って春夏の甲子園に続けて出場、慶応大に進学していく。プロ(巨人、中日)を経て、やがては母校慶応の監督に就くという充実した野球人生を送るのだが、その幼少期より兄は父代わりと言えた。

 父の哲美がシンガポールに出征していた大戦中、母の判断で江藤家が空襲を逃れて疎開をする際、当時7歳の江藤が幼い省三を背負い、右手に持てるだけの荷物を持ってあとに続いた。その姿を見て母親は「メダマ金時(金太郎)ごたぁる」と言った。幼いながらに頼もしさを見てとったのであろう。

「私が現在あるのはもうすべて兄貴のおかげですから。『自分は大学に行けなかったから、弟はみんな俺が進学させてやる。親父は何もしなくていいよ』って、父親にも言ってくれてね。私も頭が上がりませんでした。巨人に入団した時に中日戦になると、兄貴がベンチに『おい、元気か』と訪ねて来るのですが、直立不動で『はい。元気にやっています』とあいさつしました。それを見た柴田(勲)なんかが、『何で兄弟に敬語を使っているんです?』とか言うんですが、私にとっては普通のことでした」

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