権藤博が語る、王貞治と江藤慎一との打撃の共通点。「生き残るために変化を恐れない」 (4ページ目)
中日はこの年に大きな変貌を遂げていた。前シーズンより中日二軍監督に就任していた日鉄二瀬時代の恩師・濃人渉(のうにん・わたる)が監督に昇格していたのである。加えて、ブリヂストンタイヤから入団した新人投手の権藤博が超人的な活躍を見せてチームも2位に食い込んだ。
権藤は429.1イニングを投げきり、35勝、32完投、12完封という圧倒的な数字を残した。「権藤、権藤、雨、権藤」の惹句(じゃっく)はこの時に生まれた。入団した権藤はノンプロ時代からよく知る江藤の打撃の変化に驚いていた。
「九州で2年間、ブリヂストン鳥栖と日鉄二瀬で戦っていましたから、その時以来のつき合いですよ。正直、私は、彼はプロでは通用しないと思っていたんです。二瀬の野手は練習でグラウンドの場外に打たないとプロには入れないと言われていたんです。寺田(陽介、南海に入団)さんなんかは、ガンガン振り回してその際たるもんでした。江藤さんも大上段に構えて遠くに飛ばしはしていましたが、穴が大きかった。キャッチャーで4番を打っていて、当たれば大きいというタイプ。しかし、私がカーブを投げたらほとんど打たれなかった」
当時のエネルギー供給源のトップが石炭という時代、二瀬炭鉱の野球チームは豪胆を以て尊ぶ気風があり、都市対抗を応援する社員や地元の炭鉱夫たちもそれを支持していた。練習で場外に打てないとプロには入れない、というひとつの伝説の下、江藤もまた次のステージに行くために振り回していた。その穴をブリヂストンのクレバーなエースは看破していた。
「ところが、チームメイトになって見たら構えがガラッと変わっていた。バットを心持ち寝かすようになった。それがすごい。オープン戦で見た時にシュアになっていて、プロのコーチはさすがだと思ったもんです。『大したもんですね。江藤さん、誰が教えてくれたんです?』『いや、博。誰かに教わったわけじゃないんや。俺はプロに入って自分でこれじゃあかんと思って変えたんや』。
彼のすごみはバットマンとしてのその切り替えのよさ。自分ですべて考えてプロに適応していく生き様がすごい。それでセ・パ両リーグの首位打者を獲ったんです。それは王(貞治)さんにも言えていて、私は、1年目は王さんにほとんど打たれなかったのですが、2年目に一本足打法になってから打たれた。王さんもまた変化を恐れない人でしたからあれだけの成績を残したんでしょう。よいバットマンに共通して言えるのは、生き残るために自分で突き詰めて考えて変化を恐れない勇気ですね」
江藤の右投手の外角スライダー打ちの技術についてはこう言った。「むしろインコースが打てなかった。だけど、あれだけの迫力では投手は懐には投げられない。そこでインコースは捨てて踏み込む。外角へのスライダーは彼にとってはカモですよ」
権藤は2年目も362.1回を投げて30勝をあげたが、以降は肩、肘を痛めて10勝、6勝と先細りになり、4年で投手を断念し、野手への転向を余儀なくされている。
紛れもなく酷使の影響だが、社会人時代に日鉄二瀬の補強選手として都市対抗に出場して以来、中日入団に際しても権藤と濃人との関係は深く、権藤は太く短く終わった投手生活について悔恨がましいことを一切、口にしていない。
「毎日投げろ、と言われても何とも思わなかったですね。プロで一旗あげてやろうと九州の田舎もんが都会に出て来たわけで、元々内野手だから、肩もすぐできた。仕事があれば投げるだけですよ」
それでいて経験主義に陥らず、投手コーチになってからの権藤は、無理な連投を教え子たちには絶対に強いなかった。「それは自分で肩の痛みを知っていたからです。僕の指導者としての成功は顔をゆがめながらも投げていた頃の痛みを覚えているからですよ」
選手の人生を考え、俺の若い頃は......という消費をしなかったことで多くの投手に慕われた権藤は、監督としても横浜ベイスターズを日本一に導いている。
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