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藤浪世代の大阪桐蔭に入部した「10年にひとりの逸材」はなぜ甲子園のマウンドに立てなかったのか?

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜平尾奎太(全4回/2回目)

 それでも平尾奎太が復帰への強い思いを伝え続けると、数値を細かく見ながら状態が安定していれば......とグラウンド復帰の道を求める方向で、月頭から週間の検査入院。背中から針を刺し腎臓の一部組織を採取する腎生検を行ない、10月頭からさらに1カ月、12月にも再度入院し、投薬と食事療法を徹底した。

甲子園での登板はなかったが、大阪桐蔭の春夏連覇のメンバーに名を連ねた平尾奎太氏(右端) photo by Sankei Visual甲子園での登板はなかったが、大阪桐蔭の春夏連覇のメンバーに名を連ねた平尾奎太氏(右端) photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【高校野球をやりきって甲子園に出たい】

 復帰への道がうっすらと見えて来るなか、チームは秋の大阪を制覇、近畿大会もベスト8で選抜出場をほぼ内定。今度は仲間から取り残されて行く焦りを強く感じ始めていると、そこへ医師から新たにひとつの注文が出た。

「来年の夏まで高校野球をできたとして、3年の夏が終わったところからは1年、野球はもちろん、運動をストップするように」

 医師の言葉は、高校で野球人生が終わる可能性を含んでいた。平尾も、「大学で野球ができなくてもいい。高校野球をやりきって甲子園に出たい」という思いのみだった。

 地道な療養生活を重ね、年が明けてからようやく練習に参加できるようになった。とはいえ、ウォーキングやストレッチ、球拾い程度で、短時間で切り上げて寮に戻る。戻るとすぐに入浴、夕食、洗濯を済ませ、ほかの選手が帰ってくる頃には自室にいた。

 藤浪晋太郎、澤田圭佑と3人で過ごしていた部屋から、少し離れたひとり部屋へ移動。練習に復帰したとはいえ、選抜を目標に厳しい冬の練習に励む仲間たちとの間には、どこか距離を感じる日々だった

 漠然とした不安も抱えながら、平尾のなかには日に日にある思いが抑えられなくなっていた。

「これじゃ、なんのために戻ってきたかわからん。大学で野球ができなくてもいい。再発してもいいから、思いきり高校野球をやりたい」

 両親、医師にも思いを伝え、練習の強度と量を少しずつ上げていくよう再考。1月末には立ち投げからブルペン入りすると、慎重にペースを上げ、選抜では藤浪、澤田と1年下の網本光佑と共にベンチ入り。

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著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

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