藤浪世代の大阪桐蔭に入部した「10年にひとりの逸材」はなぜ甲子園のマウンドに立てなかったのか? (2ページ目)
念願の甲子園出場を果たしたが、チームが5試合を戦い春の頂点に立ったその大会で、平尾の登板機会はなかった。つづく春の大阪大会、近畿大会でも大阪桐蔭は負けなしの快進撃。だが、平尾の状態はなかなか上がってこなかった。
「6月に高知での招待試合で、ストレートの球速が128キロの時があって。藤浪は楽々140キロ台半ばを出しているのに。見ていた後輩も『これでメンバー?』って思っていたでしょうね。まだどこかでセーブしながらやっている感じが抜けていないと思って、『病気のことは完全に忘れよう』と気持ちを入れ直したんです。そこから真っすぐだけで200球の投げ込みをしたり......。この夏で野球人生が終わってもいいくらいの気持ちでした」
【甲子園のマウンドに立つことは叶わず】
一方、チームでは夏の大会が迫るなか、藤浪の調子が上がってこなかった。股関節を痛め、6月の近畿大会で戦列復帰をするも、その後の練習試合、紅白戦でも打ち込まれた。
「チームが『藤浪、大丈夫か?』っていう空気になっていたのは覚えています。紅白戦で藤浪がメッタ打ちを食らって、3回で10点くらい取られたんです」
その藤浪が、夏の大会に入ると一変。特に甲子園では4試合で完投し、36イニングを投げて自責点2。藤浪の活躍もあって、チームが史上7校目の春夏連覇を達成した。
「大阪大会もほとんど藤浪と澤ちゃんで投げて、甲子園では完全にふたり。特に藤浪は、甲子園準々決勝の天理戦から準決勝の明徳義塾、決勝の光星学院とほんとに打たれなかった。『あの紅白戦はなんやったんかな』と思うくらいすごくて。チームとしても苦しんだのは大阪大会決勝の履正社くらいで、ほんと強かったですね」
平尾は春に続き、夏も甲子園のマウンドに立つことはなかった。夏の登板は、大阪大会2回戦でのリリーフ2イニングと、5回戦の生野工業戦での先発5イニングのみ。振り返れば、その生野工戦が夏のラスト登板となった。平尾は「あれが3年間のベストピッチ......ですかね」と笑みを浮かべた。5回コールド勝ちとなった試合で、平尾は2安打、5奪三振の好投を見せた。
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