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夏の甲子園決勝で強豪PLと対戦 取手二の控え左腕・柏葉勝己が振り返る一世一代のワンポイントリリーフ (3ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

現在は豊洲市場で働く柏葉勝己さん photo by Uchida Katsuharu現在は豊洲市場で働く柏葉勝己さん photo by Uchida Katsuharuこの記事に関連する写真を見る

【監督の手の平の上で踊らされていた】

 野球に「たられば」は禁物だが、もしそのまま石田が続投していれば、PLの勢いに飲まれてサヨナラ負けを喫していたかもしれない。

「交代の時は『やっぱり4番の清原には通用しねぇだろうな』と、無愛想にボールを誰かにぶん投げてライトへいきました。石田とすれ違いましたが、表情はそんなに変わらなかったです。木内さんは『石田がライトで頭を冷やして、笑顔でマウンドに帰ってきたんだ』って言っていましたが、勝てば何とでも言えますよ(笑)」

 ただ、あのワンポイントにこそ、木内マジックの神髄が凝縮されていたことは間違いない。柏葉は「選手をよく見ていましたよね」と、「弱者の兵法」をモットーとした恩師の凄さを振り返る。

「2年春の選抜はレギュラーの背番号と守備位置がほとんど合っていなかったんじゃないでしょうか。こういう風に選手を動かしたら、どういう戦略が立てられるかというのは常に考えていたと思います。お釈迦様じゃないですけど、我々は木内さんの手の平の上で踊らされていましたね」

 あの夏から41年が経った。柏葉は高校卒業後、野球からは離れ、水産物の卸売をおもに行なう中央魚類株式会社に就職。40年に渡り、新鮮な魚や魚介類を全国に供給してきた。

「簡単に言うと、お魚を買ってお魚を売る仕事です。以前は競りもやっていましたね。豊洲市場という『市場の甲子園』で頑張っています」

 今春。創立100周年を迎えた母校に、県大会と甲子園の優勝メダルを寄贈した。全国制覇以来遠ざかる甲子園を目指す後輩たちが、金色の輝きを見て少しでも刺激を受けてくれたら本望だ。

「家に飾っているわけではなかったので、学校にあったほうがいいだろうなと思い、寄贈しました。当時はもちろん、甲子園に行きたい、優勝したいという気持ちはありましたが、あそこまで行けたというのは勢いがあったからだと思うんですよね。今でも同年代の人には当時のことを聞かれることが多いです。取手二で野球をやらせていただいたからこそ、いろいろな経験をさせてもらいましたし、今の自分があると思っています」

 柏葉が、そして茨城の公立校が起こした奇跡は、いかに時が移ろうとも、色あせることはない。

著者プロフィール

  • 内田勝治

    内田勝治 (うちだ・かつはる)

    1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう

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