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中島佑気ジョセフはなぜ「キツい400m」を選んだのか 「200mのほうが楽しかった」その矢先に... (4ページ目)

  • 和田悟志●取材・文 text by Wada Satoshi

【今の土台が形成された高校3年間】

 そんな中島の思いとは裏腹に、城西高の顧問で、シドニー五輪男子400m日本代表の山村貴彦先生はちゃんと見ていた。都大会に出場した際に、山村先生から声がかかった。

「(城西高に)自分が行きたいと思っていたうえに、400m界のレジェンドに直接声をかけていただいて、こんなにうれしいことはなかったです。だからもう『ここしかない!』と思いました」

 その直感は間違ってはいなかった。山村先生の指導を受けた高校3年間で、今の中島の土台が形成されていった。

中島佑気ジョセフが高校時代に学んだこととは? photo by Koreeda Ukyo中島佑気ジョセフが高校時代に学んだこととは? photo by Koreeda Ukyoこの記事に関連する写真を見る「先生はすごく厳しい方でしたが、自分の考えを押しつけることなく、鼓舞してくれました。それにすごく合理的で、競技に直接寄与しないところはバッサリと捨てて、逆にいいと思ったことは全部取り入れていました。

 たとえば当時、高校生でサングラスをかけている選手はそんなにいなかったんですけど、山村先生は『日差し対策になるし、集中力がアップするんだったら、かけてもいい』という考えでした。

 ある意味、外資系企業みたいな感じというか、実力主義でメリハリがしっかりしていました。自由と創造性を重視していて『自分で考えて』とけっこう言われていました。『どうしたら速くなれるのか』を常に頭のなかで考えていますが、そういった想像力、素養はそこで育まれたかなと思います。本当にすごくいい高校だったと思います」

 専門種目が「400m」に定まったのも高校時代だった。

 実は当初、山村先生からは「100m、200mのほうがいいんじゃない?」という提案を受けたという。実際に高校2年生の南関東大会では、400mが予選落ちだったのに対して200mは8位に入り、全国まであと一歩だった。

「この時点ではトントンか、むしろ200mのほうがいいんじゃないかっていう感じでした。自分でも200mのほうが楽しかったです。400mはやっぱりキツいですから」

 インターハイ予選を終えて秋以降の方針を検討した際に、一度は100m、200m路線で行くことが決まった。

 そんな矢先のことだ。中島は肉離れに見舞われてしまった。

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