検索

【プロレス】アントニオ猪木の失神KO負けに、藤原喜明は「あぁ、芝居してるな」 その後のクーデター事件も振り返った

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(11)

(連載10を読む:前田日明とアンドレの「不穏試合」で藤原喜明が思い出す、リングサイドから叫んだ瞬間>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第11回は、アントニオ猪木の失神KO負け、タイガーマスクの電撃引退、クーデター事件など、新日本の激動の1983年を語った。

猪木(左)にアックスボンバーを放つホーガン photo by 東京スポーツ/アフロ猪木(左)にアックスボンバーを放つホーガン photo by 東京スポーツ/アフロこの記事に関連する写真を見る

【藤原から見た舌出しKOの真相】

 1980年代に入り、新日本プロレスの状況は大きく変化した。

 1981年4月23日、蔵前国技館で佐山サトルが変身したタイガーマスクが誕生して人気が沸騰。時を同じくして、新日本のエースで社長のアントニオ猪木は、崩壊した国際プロレスのラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の"はぐれ国際軍"と抗争を開始した。さらに、 1982年10月8日の後楽園ホール大会での6人タッグで、長州力が藤波辰巳(現・辰爾)に反逆し、ふたりの対決は「名勝負数え唄」と呼ばれる"ドル箱カード"になった。

 タイガーのアイドル人気、猪木vs木村や藤波vs長州といった日本人対決も大ヒットし、全国各地で行なわれた年間200試合以上がほぼ満員、テレビ朝日が金曜夜8時から中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は常に20%を超えるなど、新日本は最高の活況を呈していた。

 そんななかでも藤原は、我が道を歩いていた。

「会場にお客さんがたくさん来てくれることは感じてたよ。だけど、俺はお客さんがいようといまいと、リングの上で自分の仕事をやるだけ。だから、別に気持ちは変わらなかった。練習ができて、試合が終われば美味い酒を飲む。それしか興味はなかったよ」

 新日本の人気が最高潮を迎えたのは1983年だった。同年の5月から6月にかけて、専務取締役営業本部長を務める新間寿と猪木が構想した、全世界のチャンピオンを統一するリーグ戦「IWGP」を開催。日本、米国、北米(除く米国)、中南米、欧州の世界5地区の代表レスラーが「世界統一王者」を決めるシリーズを戦った。

1 / 4

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

キーワード

このページのトップに戻る