日本ボクシング世界王者列伝:西岡利晃 初挑戦から苦難の月日を乗り越え世界王座を奪取した「不撓不屈」の精神
長い年月を経てたどり着いた世界王座を7度防衛した西岡利晃 photo by 中井幹雄/アフロ
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち23:西岡利晃
不撓不屈。堅忍不抜。そんな言葉は西岡利晃(帝拳)のキャリアに対して使ってこそ、ふさわしい。勝利が有望視された3度目世界挑戦の目前、アキレス腱断裂というアスリートとして決定的なダメージを負った。1年余のブランクを経てカムバックするも、このボクサーが生まれ持った美質の多くを失っていたように見えた。だが、西岡はあきらめなかった。遠くに霞んで見えた栄光まで、ジリジリとにじり寄って、ついに世界チャンピオンの念願を叶えるまで、雌伏の時間はなんと6年以上。運命に抗い、修練の鬼となって、ついにリングの名作をリングに遺すことになる。
【ボクシングの理想だけを見つめた?】
私自身の大きな誤解に気づいたのは昨年の夏だった。何気なく古いDVDを取り出して、西岡とレンドール・ムンロー(イギリス)の試合を見ていた。保持するWBC世界スーパーバンタム級タイトルの5度目の防衛戦(2010年10月24日)。多くのファンや関係者は判定勝ちを収めたこの一戦こそが、西岡のベストファイトと見なしている。
ムンローには勢いがあった。几帳面なボクサーパンチャーで、のちの世界チャンピオンや精鋭を相手にイギリス、欧州、英連邦と地域タイトルを総なめにし、世界王座挑戦者決定戦でもTKO勝ち。普段の仕事はゴミ回収の作業員で、よりよい生活を求めて、気力も充実していた。
西岡は、だが、そんなムンローに何もさせなかった。細かいステップを用いての距離感覚が光った。ときどきの攻防選択も完璧で、ムンローはどんな形で攻めていいのかさえもわかりかねているかのようにも見えた。
そのときだ。はっと気づいた。もしかしたら、この戦い方は、天才を謳われた西岡が、自らのボクシングの完成形としてずっと昔から追い求めてきたものではなかったか、と。だとすれば、私は長い間、西岡の戦いを歪んだ視野から眺めていたことになる。
2001年9月、WBC世界バンタム級王者だったウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に挑んで引き分け。いささかでも分のいい戦いに見えた。翌年3月に計画された新たなウィラポン対西岡戦のチケットは、関係者によると空前の売れ行きだったという。しかし、試合直前のトレーニングで西岡の左足アキレス腱が切れる。戦いは中止になるしかなかった。
1年以上ものブランクの後、カムバックを果たし、さらに対ウィラポンとの対戦が2度も組まれたが勝ちきれなかった。負傷以前の"ハイセンス"の塊のような動き、攻め口の鋭さは以前よりずっと鈍磨して見えていた。
頂点を再び目指す道のりは険しいものに見えた。年2戦、ゆっくりとしたスケジュールで試合をこなした。相手を追うプレスを強め、真正面から的確なパンチで切り崩す。下半身に不安があるのなら、それしか方法はない----勝手にそう思い込んだ。かつて『スピードキング』と形容された華やかなステップとコンビネーションパンチは傍らに置き、『モンスターレフト』と呼ばれたサウスポースタンスから打ち放つ左パンチの破壊力をどこまでも高めていくしかなかった、と。
だが、違っていたのだ。形は少し違ってしまっても、自分のやりたかったボクシングを、なんとしても取り戻す。西岡は、そう考えていたのだろう。その真意を見抜けぬまま、数多に書き連ねた私の戦評は、とりあえずボツにするしかない。
著者プロフィール
宮崎正博 (みやざき・まさひろ)
20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。

