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【プロレス】棚橋弘至とはどんな男だったのか 長年取材する元東スポ記者が明かす素顔と、新日本で「モテ男」が受け入れられるまで (5ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――ほかにも、「100年にひとりの逸材」と名乗り始めたり、エアギターをやり始めたりとさまざまな形でアピールしていましたが、柴田さんの目にはどう映っていましたか?

柴田:「100年にひとりの逸材」というフレーズが生まれたのは、いつごろだったか......。おそらく、2008年の後半くらいからじゃないかと。猪木さんをはじめ、ストロングスタイルの試合を見てきた者としては、正直、面食らいましたよ。

 でも、当時は新日本が低迷していた時期ですし、逆にちょうどよかったんじゃないかと思います。いろんな先輩たちを見て、ゆっくり研究できたでしょうから。そのうえで、「自分は違う方向を目指そう」「新しいものを出していこう」と、一見チャラい感じの、今のようなキャラクターになったんじゃないでしょうか。

――明確に、ファンに受け入れられたと感じた時期はありますか?

柴田:ターニングポイントがあったわけではなく、本当に徐々に変わっていった感じです。棚橋のすごいところは、チャラく見えるのに、ちゃんと練習に取り組んでいるところ。亡くなった小林邦昭さんも、「あいつは、かなり練習している」と感心していました。

 見ている人は見ているんですよ。基礎はしっかりしているし、試合運びもちゃんとしている。見た目はチャラいけど、やっていることはストロングスタイル。内藤も、メキシコ遠征から帰国してからスーツを着たりして、最初はみんな笑っていたと思うんです。「早く脱げ!」って言われていたのが、いつの間にか新日本の中心選手になっていた。それも、しっかりしたプロレスの基礎があってこそです。

――内藤選手は、マイクもうまいですね。

柴田:確かにうまいですね。棚橋は、あまり気の利いたことは言えないけど(笑)、正直というか、一生懸命さが伝わる。「プロレスが大好きなんだろうな」って。その気持ちがファンのハートに届いたから、棚橋の時代がきたんだと思いますよ。

(連載24:元東スポ記者が語る棚橋弘至と中邑真輔、引退試合の相手オカダ・カズチカとの関係−−3人の物語は「まだまだ続いていく」>>)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。現在はプロレス解説者として各メディアで記事を掲載。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

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