検索

【プロレス】棚橋弘至とはどんな男だったのか 長年取材する元東スポ記者が明かす素顔と、新日本で「モテ男」が受け入れられるまで (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

――棚橋選手は学生プロレス出身ですが、そのなかでも「ズバ抜けていた」という話をよく聞きます。

柴田:当時、学生プロレスはタブー視されていました。棚橋本人はプライドを持っていたけど、表には出せない雰囲気がありましたね。棚橋は学生プロレス出身者も多いインディー団体に参戦することもありますが、そういう人たちの思いをよく理解しているからでしょう。

――デビューは1999年10月10日。真壁刀義(当時は真壁伸也)選手が相手でしたが、当時の印象はどうでしたか?

柴田:明るいし、将来有望で「トップクラスまではいくだろう」と思いました。ただ、同期には井上亘や柴田勝頼もいて、若手選手の層が厚かったですから、注目度ナンバーワンというわけではなかったですけどね。肉体はでき上がっていましたけど、ここまでの超スター選手になるとは思わなかったですよ。

【「愛してま~す!」がファンに受け入れられるまで】

――2002年2月1日、札幌大会の"猪木問答"の時も、棚橋選手はリングに上がっています。

柴田:中西学や永田裕志、KENSOなどもいたけど、あの時はまだ棚橋は目立っていませんでした。ヤングライオン時代は、僕もインタビューをしなかった。今と違って、メインイベントの選手でも、毎回インタビューを受ける時代ではなかったですけどね。

――「愛してま~す!」が決めゼリフになったのは、いつごろですか?

柴田:2006年7月、IWGPヘビー王座を初戴冠した試合後に「愛してま~す!」とマイクで絶叫したのが始まりです。当時は観客に受け入れられず、無反応だったり、失笑が漏れたりしていました。

 だけど、今では当たり前になっています。継続は力なり。やり続けることが大事だということを、身をもって証明しましたね。棚橋だけじゃなく、中邑真輔の「イヤァオ!」も、オカダ・カズチカの「カネの雨が降るぞ!」も、内藤哲也の「トランキーロ」も、最初から支持されていたわけではないですから。

4 / 5

キーワード

このページのトップに戻る