佐竹雅昭がK-1を「やめよう」と思った武蔵とのラストマッチ 負けても人生は「勝ちに持っていくことができる」
(第19回:武蔵との試合で「ピンとこなかった」理由 「自分とは格闘家として辿ってきた道が違う」>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動する佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の最終回となる第20回は、武蔵とのK-1ラストマッチとその後について語った。
格闘家人生を振り返った佐竹氏 photo by Tanaka Wataruこの記事に関連する写真を見る
【試合当日に聞かされたジャッジ変更】
1998年5月24日に初めて武蔵と対戦して引き分けた佐竹。再戦の機会は、1999年10月のK-1グランプリ開幕戦で訪れた。
しかし、5ラウンドの試合をさばく3人のジャッジが通常の公式審判員ではなく、アーネスト・ホーストが所属する「ボスジム」のヨハン・ボス会長、アンディ・サワーらを輩出した「目白ジム」のヤン・プラス会長、マイク・ベルナルドが所属する「スティーブジム」のスティーブ・カラコダ会長が務めるという、異例の構成となった。
「そのジャッジ構成を聞いたのは試合当日でした。いきなりジャッジが変わるなんてあり得ないし、彼らはトレーナー。大会前から、不穏な空気というか、"佐竹は邪魔者"みたいな視線を感じていましたから、『何かあるのかもしれない』という悪い予感はありましたね」
試合は1ラウンド、佐竹が右ストレートでダウンを奪う。2ラウンドは武蔵の左ミドルが効果的に入ったが、3ラウンドは佐竹が圧力をかけて攻めて武蔵がクリンチでそれを止める展開に。4ラウンドも同じような膠着状態が続き、最終5ラウンドも両者ともに決め手を欠いたままで終了のゴングが鳴った。
かなりタフな試合だったが、ジャッジは3人とも48-46で武蔵を支持した。佐竹はダウンを奪った1ラウンド以外、すべて武蔵にポイントを取られたことになる。
負けを宣告された瞬間、リング上で佐竹は「このままK-1をやめよう」と決断した。
「彼の攻撃はまったく効かなかったし、ダメージもありませんでしたから試合が終わっても元気でした。僕がダウンしそうになるとか、もっと追い込んでくれたら『強くなったな』『バトンタッチするよ』と潔く負けを認めたと思います。『闘って面白かった』って認めさせてくれたなら......。でも、全部が中途半端で僕が目指す"空手バカ一代"じゃなかったんですよ」
1 / 3