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佐竹雅昭がK-1を「やめよう」と思った武蔵とのラストマッチ 負けても人生は「勝ちに持っていくことができる」 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji

【K-1の舞台から去ったあとも貫く"空手道"】

 佐竹はさらに続けた。

「大会前から不穏な空気も感じていましたから、判定が出た時に『ああ、こういうことか』って思いました。もともと、『自分の空手人生はK-1で終わりじゃない』と思ってましたし、『さっさとやめたほうがいい。ここにいるとロクなことはない』と決意したんです」

 しかし控室に戻ると、志を共にした後輩たちが判定に憤り、涙を流していた。その姿を見て、ひとつのけじめをつけることを決めた。

「何も言わずに大阪ドームを去ろうと思っていたんですが、後輩が『こんな判定はおかしい』って悔し泣きしていたんです。彼らのためにも僕も何か言わなきゃいけないと思って、石井館長の部屋へ行って『どういうことですか?』と質問しました。答えは『どうでもいい』。それを聞いて、完全にやめる決意が固まりました」

 その武蔵戦から1カ月後の11月4日、佐竹は会見を開いて正式にK-1からの離脱を表明した。その後は、総合格闘技イベント「PRIDE」を中心に、さまざまな格闘技イベントに参戦。2002年12月31日に行なわれた「INOKI BOM―BA―YE 2002」の吉田秀彦戦を最後に、格闘技を引退した。

 佐竹が空手家として刻んだ歴史は、1990年代に栄華を誇ったK-1の歴史であり、現在の格闘技イベントの礎でもある。道なき道を切り拓いた空手家・佐竹雅昭は、59歳となった今、K-1時代をこう回顧した。

「すべて(ドン・中矢・)ニールセン戦から始まったことを考えると、その試合が1990年でしたから、1999年まで約10年。年齢でいえば25歳から34歳までですが、その期間は言葉で言い表わせないものがあります。

 確かに、物語は作ったと思います。自分で言うのも変ですが、きっと映画化しても面白いくらい波乱万丈でした。少年時代に大山倍達先生に憧れ、『牛を殺したい』と思った。そう本気で考え、芯がブレなかったから生きてこられた道でした。だから無謀な試合にも挑戦できたんだと思います」

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