佐竹雅昭が前田日明に「勝った」と思った瞬間 石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情 (3ページ目)
それでも、リングスには参戦を続け、打撃だけでなく寝技の練習にも取り組んだ。
「サンボの講習会に出たり、ヴォルグ・ハン、アンドレイ・コピィロフと稽古をしたりしました。空手ではできない経験も含めて、リングス時代は面白かったですよ。今思えば、前田さんの人望でしょうね。あの人は、人が集まってくるような何かを持っている方でした」
【リングスと決別することになった一戦】
リング内外で充実していたが、別れは突然やってくる。
1992年10月29日に名古屋レインボーホールで、16名が参加するリングス初の最強決定トーナメント、「メガバトルトーナメント92」が開催され、その1回戦でリングスのプロレスラー・長井満也と対戦した。3分5ラウンド、素手で戦うルールで顔面へのパンチは禁止。佐竹はローとミドルの蹴り、掌底で佐竹が攻勢をかけた。
そして、一発の掌底が長井の顔面を捉える。長井は一瞬こらえるも、膝から崩れ落ちてダウン。立ち上がることができず、わずか1分24秒で佐竹がKOで勝利した。長井のセコンドについていた山本宜久、成瀬昌由が「拳で殴った」と抗議したが、結果はくつがえらなかった。
「あれは掌底です。握っている拳を、インパクトの瞬間に開いて叩く。常に力を抜いてインパクトだけ掌底で打ち込み、離れたら拳を握るという技です。『きれいに入った』と思いました。成瀬くんや山本くんがいきり立って僕に向かってきましたが、彼らとは一緒にご飯食べに行ったりして仲がよかったので、『なんで俺にメンチ切ってるんだ?』と思いましたよ。
控室に戻ってモニターの映像を見ても、完全に掌底でしたからね。確か、会場のスクリーンでも同じ映像が流れて、お客さんも納得していたと思います。あの頃は、誰とやっても負ける気はしませんでしたね」
一方で、リング外での石井館長と前田の"異変"も感じていた。
「石井館長と前田さんの仲が悪かったんですよ。何かあったんでしょうけど、僕は知らない話。あの長井戦も勝手に決まっていて、『いい迷惑だな』と思ってリングに上がったことを覚えています。ただ、勝負になったら、そんなゴタゴタは関係ない。『思いっきりやらせてもらう』と思って、目の前の敵を倒しただけです」
相手セコンドからの抗議に、石井館長は怒り心頭。佐竹に"命令"を下した。
「試合が終わったあと、『佐竹、帰るぞ!』と言われて、そのまま会場を去りました」
そのあとに予定されていた2回戦を、佐竹は「肋骨骨折」を理由に欠場した。そのまま、正道会館はリングスと決別。迎えた1993年、立ち技格闘技最強を決める「K-1グランプリ」が開幕する。
(第9回:佐竹雅昭のための大会、K-1グランプリが初開催 無名のキックボクサーの拳に「痛ぇ! なんだこのパンチは!」)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。
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