日本ボクシング世界王者列伝:ロイヤル小林 歴史に残る「世界の拳豪」たちと相まみえたナチュラルエリートの左フックの記憶
ロイヤル小林は1976年10月、リアスコ(右)をKOで破り、世界Jr.フェザー級王者に photo by Jiji Press
井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNA02:ロイヤル小林
日本ボクシング界の最強パンチャーを選ぶとしたら、ロイヤル小林(国際ジム)の名前は外せない。少なくともトップ5には入る。たくましくプレッシャーをかけながら打ち込むパンチはどれも強烈無比。とりわけ、その左フックには豪快さと切れ味がともに宿った。1976年に獲得したWBC世界ジュニアフェザー(現スーパーバンタム)級タイトルは在位47日の日本史上最も短命に終わったが、豪打の記憶はオールドファンの胸に今なお、力強く息づく。
【才能の在処は拳だけにあらず】
1972年のある日、ミュンヘン五輪ボクシング日本代表4選手の合同練習に、多くのプロ関係者が集まった。アマチュアアスリート最高峰の舞台で戦う選手たちに、違う視点からアドバイスをもらおうというアマチュア連盟(日本ボクシング連盟)のアイデアだった。
プロフェッショナルの目はひとりのボクサーに集中する。自衛隊体育学校所属の22歳、フェザー級(57kg級)代表の小林和男だ。のちのロイヤル小林である。
その豪打は、すでに広く知れ渡っていた。1年前に彗星のように出現し、全日本選手権大会を連覇した。当時のアマチュアの主力は大学生で、拓殖短期大学夜間部で学んでもいた小林は、1年間だけチーム戦で争う大学リーグ戦に参戦した。小林は全日本大学選手権を含めて4戦すべてにKO、RSC、棄権勝ち(RSC=タオル投入の棄権はプロのTKO勝ちに相当)。なおかつ、うちふたりを担架送りにした。そんな注目選手の練習に張りついたプロ関係者は、驚いた。
「パンチだけじゃない。こちらが言ったことすべて、すぐに吸収し、実際にやってみせる。すごい才能だ」
オリンピック本番、小林は初戦で2度のダウンを奪って快勝。続いて左ボディブローを決めて初回KO勝ち。銅メダルをかけた準々決勝で惜しくも敗れたものの、プロ側の評価は高まる一方だった。
翌春、小林はプロ入りする。キャッチフレーズは『KO仕掛人』。当時人気のテレビ時代劇からつけられた。ちなみに『ロイヤル』というニックネームには海外から驚きの反応もあったが、こちらは単にスポンサー企業から拝借したものだ。
1973年2月のデビュー戦から、会場の後楽園ホールは満員札止め。初お目見えこそ、ベテラン相手に判定勝ちにとどまったが、2戦目から快進撃が始まった。11連続KO勝ち。ハードパンチは一戦ごとに凄味を加えた。期待感も爆発的に高まった。1974年6月には、かつてファイティング原田(世界フライ、バンタム級チャンピオン)をTKOに破ったこともある、"ロープ際の魔術師"ことジョー・メデル(メキシコ)をダウンさせて棄権に追い込んだ。
同年9月には、ハワイを主戦場にする世界上位ランカーのバート・ナバラタン(フィリピン)に10回判定勝ち(3ー0)を収め、世界を視野に捉える。だが、陣営はなお下準備を重ねた。日本国内のライバルと連戦して連勝。1975年5月には技巧で鳴らした前東洋太平洋フェザー級チャンピオン、歌川善介(勝又)をわずか2回で粉砕した。小林の世界アタックに待ったをかける声はどこからも聞こえなくなった。
リングのニューヒーローは、この男しかいないと誰もが確信していた。
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著者プロフィール
宮崎正博 (みやざき・まさひろ)
20歳代にボクシングの取材を開始。1984年にベースボールマガジン社に入社、ボクシング・マガジン編集部に配属された。その後、フリーに転身し、野球など多数のスポーツを取材、CSボクシング番組の解説もつとめる。2005年にボクシング・マガジンに復帰し、編集長を経て、再びフリーランスに。現在は郷里の山口県に在住。