【マラソン】鈴木健吾が語る箱根駅伝の記憶「2区は神大の地元。どこの大学よりも応援がすごい。沿道がプラウドブルーに染まるんです」
【不定期連載】箱根からロス五輪へ~MGCに挑むランナーの肖像~
第5回 鈴木健吾(横浜市陸協)前編
箱根駅伝には4年連続出場。3年時には2区で区間賞を獲得した photo by Aflo
箱根駅伝を走ったという事実は同じでも、その物語は一人ひとりまったく違う。区間賞を重ねたスターもいれば、たった一度の出走で思うような成績を残せなかった選手もいる。本連載では、2028年ロサンゼルス五輪代表の座を争うMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)出場権獲得ランナーたちに、箱根を走った学生時代の記憶、そして、世界を見据えて42.195kmに挑む現在地を聞く。
第5回は、鈴木健吾選手(横浜市陸協・31歳)。言わずと知れたマラソンの前日本記録保持者だ。インタビュー前編では、箱根駅伝の「花の2区」での区間賞獲得など、華々しい活躍を見せた神奈川大時代の記憶を振り返ってもらった。
【初の箱根で受けた洗礼「大変なところに来たな...」】
陸上人生が大きく動き始めたのは、宇和島東高3年時に出場したインターハイの後だった。
それまで決して目立つ存在ではなかった鈴木は1500mと5000mに出場。5000mでギリギリの決勝進出を果たすと、その決勝でも留学生がトップ3を占めるなか、10位(日本人7位)に入る健闘を見せた。以降、関東の強豪大学や実業団から誘いを受けるようになったのだが、それ以前に、鈴木に声をかけていた大学が1校あった。
「インターハイの結果を受けて、いろいろお誘いをいただいたのですが、冷静に自分の実力を考え、最初に声をかけていただいた大後(栄治)さん(当時神奈川大駅伝部監督/現部長)の神大に行くことを決めました」
箱根駅伝出場を目指し、鈴木は意気揚々と大学生活のスタートを切ったが、当初は自身初めてとなる寮生活に戸惑った。
「相部屋の先輩は優しくて恵まれていたのですが、やっぱり1年生の時って4年生がすごく大人に感じるじゃないですか。寮に先輩といると、つねに緊張しているみたいな感じでした。それに寮則も覚えないといけませんし、風呂掃除などの仕事もある。学年ミーティングも頻繁にあり、どうしても寝る時間が遅くなってしまう。僕は睡眠時間を大事にしていたので、結構しんどかったですね」
朝練にも苦労した。高校時代は朝食を摂ってから走っていたが、大学では朝食を摂る前に走らなければならなかった。10km程度のジョグでも、空腹で力が出なかった。
「だから、『(お腹が減って)元気が出ません』と大後さんに相談に行ったんです。大後さんからは『ゼリー(飲料)で補給をしてもいいけど、空腹状態で走るのにも意味がある。徐々に慣れていくから』と言われたものの、なかなか慣れなかったですね」
また、もともと胃腸がそれほど強くなく、食習慣や料理の味付けも故郷の四国とは異なるせいか、よくお腹を下した。練習をしていても、なかなか身にならない感覚があった。それでも夏合宿をしっかりこなし、箱根駅伝予選会でもチーム内4位(全体33位)と好走し、1年目にして箱根への出走を勝ち取った。そして、大後監督から伝えられた区間は山下りの6区だった。
「(11月の)全日本大学駅伝が終わった後、大後さんにいきなり『6区、いけるんじゃないか?』と言われたんです。下りが得意というわけでもなかったので、正直、驚きましたね。おそらく6区を走る人が他にいなかったんだと思います。それまでも下りの練習は特にしていませんでしたし、そもそも何をすればいいのかもわかりませんでした」
神大は往路を14位でフィニッシュ。翌日の復路、雪がちらつくなか、鈴木はシードを目指し、勢いよく飛び出した。だが、苦しい走りに終始し、区間19位に終わった。
「寒いし、キツいしで、序盤の上りからもうダメでした。しかも、沿道の観衆から『何やってんだ!』と厳しいことを言われて......。地方の駅伝だと、どんなに遅れても応援してくれるんですけど、『箱根は違うんだな。大変なところに来たな......』と思いました。ただ、そういう声をネガティブにとらえるというよりは、箱根では本当に頑張らないといけない、中途半端な気持ちで走る大会ではないと気づかされました」
1 / 3
著者プロフィール
佐藤俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)、「箱根5区」(徳間書店)など著書多数。近著に「箱根2区」(徳間書店)。


