佐竹雅昭が前田日明に「勝った」と思った瞬間 石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情 (2ページ目)
コラムは評判になり、ほかの雑誌、新聞からも執筆のオファーが入った。
「ゲーム雑誌、漫画雑誌など、多い時はひと月に20本ほどコラムを持っていました。原稿料はだいたい1本5万円だったので、コラムだけで1カ月に100万円ほど稼いでいましたね。ほかにも、朝日新聞の夕刊でも書かせてもらいましたし、東スポではアダルトビデオを紹介する連載もやってましたよ(笑)」
それまでは、空手家といえば大山倍達を筆頭にストイックなイメージがあった。しかし佐竹は真逆で、明るく奔放。常に笑いを起こすトーク技術など、タレント性があったのだ。その才能を、テレビ界も放っておかなかった。
「大阪にいた頃も、吉本興業が制作するバラエティ番組などに出ていましたが、関東でのテレビデビューは『タモリ倶楽部』でしたね。あとは、みうらじゅんさん、筋肉少女帯の大槻ケンヂさんたちとロックバンド『大日本仏像連合』を組んだり。芸能界で活躍するようになって、石井(和義)館長から『いい加減にしろ。空手のイメージが崩れる』と言われましたが、僕は『格闘技を知らない人に、格闘技を広めるためにやっているんです。そのためには、誰からも親しまれるような面白い存在にならないといけない』と説得しました」
【"対前田"の旅が終わった瞬間】
テレビ、マスコミでの人気もうなぎ上り。いつしか正道会館の指導員を退き、リング上での待遇もプロのものになった。
「リングス時代のファイトマネーは1試合100万円でした。大学を卒業して、正道会館の指導員をした時が月5万円。最終的には11万円に上げていただきましたが、リングス時代には試合だけで食べていけるようになりました」
対戦を熱望していた、前田日明との親交も深めていった。
「前田さんは、僕と会うといつもニコニコ笑ってくださって、ふたりで飲みに行ったりもしました。対戦相手という認識から、"いいお兄ちゃん"という感じに変わりましたね」
前田との対戦を"断念"した秘話がある。
「正道会館の方の結婚式に前田さんと一緒に出席した時、前田さんが泥酔して、僕がトイレに連れていったんです。あの時に『もう前田日明とは戦わなくていい』と思いました。天下の前田日明をトイレに連れていって、用を足すのを手伝った時点で『勝った』と思ったんですよ(笑)。あの時、僕の"対前田"の旅が終わりました」
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