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初代タイガーマスク・佐山聡はアントニオ猪木にイタズラも? 元東スポ記者が普段の「素顔」を明かした (4ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【私生活では"虎ハンター"小林邦昭とも大の仲良し】

――タイガーマスクの人気を後押ししたのは、ダイナマイト・キッドやブラック・タイガー、小林邦昭さんや寺西勇さんなど、ライバルレスラーの存在も大きかったですね。

柴田:そのライバルのひとりで、マスクを脱がそうとする"虎ハンター"とも呼ばれた小林さんとは、本当に仲良しでした。佐山さんが修斗の道場やスーパータイガージムを開いた時には、小林さんが道場生たちにちゃんこを作ってあげてましたね。だから、今年9月に小林さんが亡くなった時は、佐山さんもショックを受けていましたよ。

 余談ですが、小林さんは空手道場「誠心会館」の青柳館長(=青柳政司)とも仲がよかったですね。ただ、佐山さんと青柳館長の関係は普通だったんで、食事会の時は佐山さんと青柳館長の真ん中に小林さんが座っていました。青柳館長は2022年7月に亡くなりましたが、今ごろ天国で、小林さんが作ったちゃんこ鍋を一緒に食べているんじゃないかな。

――小林さんは、誠心会館の斎藤彰俊さんと新日本で"死闘"を展開しますが、斎藤さんを見出したのは青柳館長だそうですね。

柴田:斎藤はもともと水泳が得意で、ジュニアオリンピックで優勝したり、中学時代には全国でも2位になった。中京大学に進学してオリンピックの強化選手になったけど、当時から長州さんのファンで、選手入場の際には長州さんのテーマソング『パワーホール』を使用していました。

 結局は、目指していたソウル五輪に出場できず水泳を引退。スポーツ関連の企業に就職するも、格闘技をやりたくていろんな道場に通っていたんです。それで1991年8月、W★ING(ウイング)の旗揚げに参戦。徳田光輝、木村浩一郎と「格闘3兄弟」として活躍しました。

 青柳館長は1990年6月から新日本に定期参戦してましたが、1991年12月に新日本と誠心会館がモメて抗争に発展。青柳館長は翌年1月4日の東京ドームに、斎藤を門下生として連れて行った。彼は誠心会館からの対戦要望宣言として、要望書を読み上げました。

――そして同年1月30日、大田区総合体育館で小林さんとの異種格闘技戦が行なわれました。

柴田:ピリついたなかで小林さんは大流血。"虎ハンター"を追い詰めたことで、斎藤の名が一気にプロレス界に広まりましたね。

(連載12:ブッチャーはリング外でもフォークを持ってファンサービス 「ザ・ファンクス」との流血試合も語った>>)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

【写真】ケンコバのプロレス連載 試合フォトギャラリー

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