最高待遇をなげうってMotoGPに参戦した玉田誠。親友・加藤大治郎への想い (5ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 03年シーズンにMotoGPの世界へ飛び込んだ玉田は、ブリヂストンと二人三脚で挑戦を開始した。最高峰クラス挑戦2年目のブリヂストンは、この時期まだ、後年のように圧倒的なパフォーマンスを発揮するには至っていない。ミシュランとブリヂストンの戦いは、数年後に「タイヤ戦争」という言葉が使われるくらい激烈な開発競争の様相を呈する。だが、この時期のブリヂストンはミシュランの足下に及ばないと言わざるを得ない水準だった。

 山田たちが、切歯扼腕(せっしやくわん)する思いをこらえながら懸命に開発を続けたのはいうまでもない。玉田も、ブリヂストン契約のライダーとして参戦している以上、タイヤに対するコンプレイン(不平)は表立って口にすることができない立場だった。だからこそ、余計に悔しい思いを抱えていた。

 その状況に変化の兆しが現れたのは、03年第12戦のリオGPだった。

 ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ郊外にあったジャカレパグアサーキットは、グランプリ初年度の玉田にとって、もちろん初めて走行するコースだ。にもかかわらず、その会場で玉田は3位を獲得した。相性がいい、とはまさにこういうことをいうのだろう。玉田にとっても、そしてブリヂストンにとっても、これが記念すべき二輪ロードレース世界最高峰での初表彰台になった。

 その翌戦、ツインリンクもてぎで行なわれた第13戦パシフィックGPでも、玉田は2週間前の表彰台が偶然の結果ではないことを、日本の観衆の前で証明した。

 優勝は、この年にヤマハからホンダ陣営へ移籍したマックス・ビアッジ。圧巻の独走劇で、3.7秒差の2位にはバレンティーノ・ロッシが入った。そして、ロッシから約1秒差の3番手で玉田がゴール。ホンダ3台が表彰台を独占した。

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