最高待遇をなげうってMotoGPに参戦した玉田誠。親友・加藤大治郎への想い (6ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 しかし、この表彰式の後に、レースディレクションは玉田に対して失格処分の通知を下した。理由は、最終ラップで発生した事象にあった。

 玉田は3位争いの際に、バックストレートで横に並んだセテ・ジベルナウとブレーキ勝負でラインの取り合いのような格好になり、2台が接触した。3番手でチェッカーフラッグを受けた玉田に対して、アウト側のラインを取っていたジベルナウはこの接触の影響で止まりきれず、バックストレートエンドの90度コーナーでオーバーランしてグラベルへコースアウト。そしてその結果、グループから大きく離れた5番手でゴールした。この接触を、レースディレクションは玉田の危険行為と判断したのだ。

 玉田とチームは、即座に抗議を提出。レースディレクションがライダーやチームなどへの聴取を経て、当初の裁定どおりの最終結果とする決定が下ったのは、たしか午後9時に近い時間だったと記憶している。観客はもちろん帰宅済み。メディアセンターでも、多くの人たちがすでに撤収していた。玉田が失格処分となった結果、4番手でゴールしたニッキー・ヘイデンが3位に繰り上がった。玉田と同じくこの年がMotoGPルーキーイヤーだったヘイデンは、記録上ではこのもてぎが初表彰台になった。ホンダにとっては悲喜こもごもというほかない最終リザルトだ。

 この稿を記すにあたり、あらためてこのときの映像を見返してみた。現在の目で見ても、最終ラップの接触を玉田の一方的な危険行為とする判断は、かなり微妙な裁定だった、といわざるをえない。比較対象としては、たとえばヘレスサーキットの最終コーナーで、さらに激しい「接触」が何度もあったこと等を想起すれば十分だろう。

 この年、玉田はランキング11位でMotoGPのデビューイヤーを終えた。そして翌04年は、ブリヂストンとともに、さらに波瀾万丈のシーズンを過ごすことになる。
(つづく)

【profile】
玉田 誠 Tamada Makoto 
1976年、愛媛県生まれ。95年に全日本ロードレース選手権250ccクラスでデビュー。99年にスーパーバイククラスにステップアップし、2001年にはチーム・キャビン・ホンダに加入。03年、プラマック・ホンダからMotoGPに参戦し、1年目から表彰台を獲得。2年目のリオGPでは日本人2人目となる優勝を果たす。07年にMotoGPを離れ、スーパーバイク選手権(SBK)や鈴鹿8耐などの参戦を経て、現在は後進の育成にあたっている。

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