梅崎司が浦和レッズで過ごした10年間「埼玉スタジアムが揺れる感覚は、ほかには代えがたい瞬間」
引退インタビュー
梅崎司(大分トリニータ)中編
◆梅崎司・前編>>引退決断のきっかけは曺貴裁監督の「心に刺さる言葉」
梅崎司がプロサッカー選手として駆け抜けた20年のうち、半分にあたる10年間、在籍したのが浦和レッズだった。戦いの場の中心だった埼玉スタジアムで聞いた声援は、彼をどのように突き動かしてきたのか。
若くして海外移籍を経験し、夢破れたなかで移籍した浦和レッズで抱いた当時の野心。ケガを繰り返しもがき続けた日々と、アジアを制覇した時の思い。
サッカー選手としてだけでなく、ひとりの人間として成長していった過程を思い起こしてもらった。
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梅崎司が浦和レッズでの10年間を語る photo by Sano Mikiこの記事に関連する写真を見る── 選手生活20年のうち、半分に当たる10年間を過ごした浦和レッズでの日々についても聞かせてください。大分トリニータから浦和レッズに移籍したのが2008年。2006年にJ1リーグで初優勝し、2007年にAFCチャンピオンズリーグ(ACL)でもタイトルを獲ったチームに飛び込みました。
「2007年にフランスのグルノーブルに移籍して、そこで思うようにプレーできず、打ち砕かれましたけど、それでも当時は年齢的に若く、野心にあふれていました。
もう一度、ヨーロッパに挑戦したいという思いも抱いていたので、浦和レッズでスタメンを勝ち取れば、自然とその道が見えてくると思って、移籍したことを覚えています」
── 当時のメンバーを見ると、高原直泰さん、鈴木啓太さん、阿部勇樹さん、田中マルクス闘莉王さん、坪井慶介さんと、主力を務めていた選手は、日本代表クラスばかりでした。
「そのメンツに怖じけづく瞬間もありましたけど、僕のサッカー人生はその繰り返しだったんですよね。僕自身の性格は、小心者だし、心配性だし、ビビりだし(笑)。
大分のユースに加入した時も、ユースからトップチームに昇格した時も、そこから年齢を重ねても、自分よりも力のある選手や、どこか雰囲気のある選手に対しては、怖じ気づいてしまう自分がいました」
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著者プロフィール
原田大輔 (はらだ・だいすけ)
スポーツライター。1977年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めたのち独立。Jリーグを中心に取材し、各クラブのオフィシャルメディアにも寄稿している。主な著書に『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』(小学館クリエイティブ)など。