サッカー天皇杯決勝 57回目の観戦となったベテランジャーナリストが綴る長い歴史 (3ページ目)
【天皇杯の歴史】
第2次世界大戦前、日本サッカー界をリードしていたのは大学チームだった。
関東と関西の大学リーグがいわゆる「トップリーグ」であり、カップ戦である全日本選手権よりも、東西の両大学リーグ優勝チーム同士の「王座決定戦」こそが日本最強を決める大会とみなされていた。
カップ戦よりリーグ戦を重視するという考え方は、当時からあったのである。
1920年代から30年代にかけて、「明治神宮競技大会」という大会が隔年で開催されていた。現在の国スポ(国民スポーツ大会=旧国体)のような大会だったが、毎回、明治神宮外苑競技場(国立競技場の前身)を中心に東京で開催された。
この大会は政府主催で明治天皇を偲ぶための大会だったので「各競技最高の大会とする」と定められていた。そのため、この大会が開催される年にはサッカーの全日本選手権大会は明治神宮大会と兼ねて行なわれた。
1931年大会(全日本選手権としては第11回大会)もそうだった。そして、東京帝大(現在の東京大学)は「東京帝大LB」という名称で二軍を出場させ、主力選手は明治神宮大会終了後に開幕する関東大学リーグに備えて合宿を行なっていた。リーグ戦優先だったのだ。
しかし、「最高の大会」であるはずの明治神宮大会に二軍を出したことで東京帝大は批判を受けることとなり、東京帝大の総長が謝罪する騒ぎとなった。
ちなみに、東京帝大二軍の「LB」は明治神宮大会で見事に優勝。一軍もリーグ戦で6連覇を達成した。
それにしても、1930年代の初めから「リーグ戦優先」の思想があったことは興味深い。
第2次大戦後も大学勢は強く、全日本選手権でも現役学生とOBの合同チームが優勝することが多かった。「東大LB」とか「慶應BRB」、「早稲田WMW」、「全関学」といった名前のチームがそれだ。
しかし、1950年代に入ると実業団(同一企業の会社員だけによるチーム)が台頭。1954年度の第34回大会では実業団として初めて東洋工業が決勝に進出。1960年度の第40回大会で古河電工(ジェフユナイテッド千葉の前身)が初めて優勝を飾った。
つまり、1950年代終わりから1960年代にかけては大学と実業団の力が拮抗していたのだ。そして、大学と実業団のチームがともに戦う大会は天皇杯しかなかったから、当時の天皇杯というのはまさに実力ナンバーワンを決める大会であり、大会にはJSLの上位4チームと全国大学選手権のベスト4の8チームが出場してノックアウト式で優勝を争っていた。
その後、JSL勢の強化が進むとともに大学と実業団の実力差は広がり、1969年度の立教大学を最後に大学チームが決勝戦に進出することはなくなった。そうなると、「JSL勢と大学勢の対決」という意味はなくなってしまった。そこで、天皇杯は1972年度からオープン化され、最終的には日本全国すべての第1種チームが参加できる本格的なカップ戦に成長していった。
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