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サッカー天皇杯決勝 57回目の観戦となったベテランジャーナリストが綴る長い歴史 (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【58年前の初観戦は実業団対大学の構図】

 僕が初めて天皇杯決勝を観戦したのは1966年度の第46回大会だった。1967年1月15日の「成人の日」。場所は、東京の駒沢陸上競技場。1964年の東京五輪で日本がアルゼンチンを破った記念すべき場所で、当時はここが東京におけるサッカーのメイン会場だった。

1967年の天皇杯決勝のチケット(画像は後藤氏提供)1967年の天皇杯決勝のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 東京五輪での日本代表の善戦や、翌年の日本サッカーリーグ(JSL)開幕によって、それまでマイナーな存在だったサッカーにもようやく陽が当たりはじめた頃だった。翌年から会場は国立競技場となり、1968年度の大会から決勝戦が元日に行なわれるようになった。

 最初の元日決戦はヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)対三菱重工(浦和レッズの前身)。日本代表の2大スター、釜本邦茂と杉山隆一の対決でもあった。

 以来、僕はほとんどすべての大会の決勝を観戦している。決勝戦を"欠席"したのはたった2回だけだ。

 ひとつは1980年度の第60回大会。この時は1980年の12月から翌81年1月にかけて香港でスペインW杯アジア1次予選があったので、そちらを観戦に行っていた。もう1回は2016年の第96回大会。この年の決勝戦は大阪で行なわれたが、どうしても東京にいなければならない用事があったので観戦を断念した。

 というわけで、今年の決勝戦は僕にとって57回目の観戦となった。

 1964年の東京五輪に参加した日本代表の特別コーチ、デットマール・クラマー氏(西ドイツ)が五輪大会終了後に残した「提言」に従って、1965年から日本サッカーリーグ(JSL)が始まった。日本で初めてのホーム&アウェー制の全国リーグだった。

 そのJSL初年度は東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)が優勝し、天皇杯も制して二冠を達成。翌1966年もJSLでは東洋工業が連覇。GKの船本幸路やMFの小城得達、FWの松本育夫など日本代表クラスが多数所属し、間違いなく日本最強チームだった。

 東京五輪で日本のセンターフォワードを務めた釜本邦茂はまだ早稲田大学の学生で、なんと1年生の時から関東大学リーグで4年連続得点王に輝いていた。その早稲田大学には、やはり日本代表MFの森孝慈も在籍。1966年度の第46回天皇杯では決勝まで勝ち上がって東洋工業への挑戦権を獲得した。

 僕が最初に観戦した決勝戦がこの試合だった。

 早稲田大学は釜本をトップ下に下げ、下級生の田辺暁男や野田義一を前線に置いて戦い、釜本のアシストで3ゴールを決めて逆転勝利をつかみ取った。

 この頃まで天皇杯は「実業団対大学」の構図だった。そして、大学勢が天皇杯を制したのはこの第46回大会が最後となった。

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