川崎フロンターレのホーム等々力陸上競技場は毎回2万人が集まる「劇場」 球技専用への改修に注目 (3ページ目)
【読売クラブで注目の場所に】
等々力が注目を集めたのは、1983年に読売クラブがフジタ工業(湘南ベルマーレの前身)を破ってJSL初優勝を決めた時だ。
読売クラブは1978年にJSL1部に昇格したものの、実業団勢の壁に跳ね返され続けていた。1981年には最終節でフジタに勝てば優勝という状況になったが、ジョージ与那城の決勝ゴールがオフサイドと判定されてスコアレスドローに終わり、優勝を逃していた。フジタも、前身の藤和不動産にセルジオ越後が入団して以来ブラジル路線を貫いており、読売クラブにとっては因縁の相手だった。
等々力で勝利して初優勝が決まった瞬間には、大勢の読売サポーターがピッチに飛び降りて祝福を送ったが、僕もそのひとりだった。
1982年の日本サッカーリーグ(JSL)、読売クラブの入場券。会場の「川崎」とあるのが、等々力陸上競技場(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 僕は1969年に読売クラブができてすぐに会員となったことがあったし(会費を払えば誰でも会員になって、当時は珍しかった天然芝のピッチでボールを蹴ることができた)、個人技を生かした読売クラブのプレースタイルもとても魅力的に感じていた。
さて、Jリーグ発足が決まった当時、ラモス瑠偉や三浦知良(カズ)など多くのスターを擁する読売クラブは、最大の人気クラブだった。そして、同クラブは東京の国立競技場をホームスタジアムにしたかったのだが、Jリーグはサッカー開催が可能な唯一の大規模スタジアムである国立をひとつのクラブに独占させることを嫌った。しかし、都内にはほかに適当なスタジアムはなく、読売クラブは等々力をホームとすることになり、チーム名も「ヴェルディ川崎」となった。
川崎市はバックスタンド、サイドスタンドを2層式に全面改築。収容力も約2万5000人となった。
だが、ヴェルディはその後も東京"復帰"を目論んでいた。そして、Jリーグの各クラブは観客動員が期待できるヴェルディ戦を国立で開催することが多く、年間王者を決めるチャンピオンシップも等々力ではなく国立で開催された。
その後、読売クラブは読売新聞社の撤退などで経営が悪化して観客動員も減っていく。そして、2001年には東京都調布市に新設された東京スタジアム(味の素スタジアム)に移転。「東京ヴェルディ1969」となった。
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