「森保はラモスさんに『つまんねぇな』と怒られていた」吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話 (3ページ目)
システムの変更について、オフトからは特に何も言われなくて、ボールの動きを見ながら自分たちで判断してプレーする感じでした。それができたのは、主力をほとんど変えず、ある程度長い期間、同じメンバーでプレーしてきたからです。だから、僕が前に行ったら、ラモスさんがカバーしてくれるとか、そういうことはオートマチックにできていました」
日本は急きょ変更したとは思えないほど、4-3-3のシステムが機能した。アンカーに入った吉田はより激しいチェックを見せて、相手の攻撃の芽を摘んでいった。ラモスもイラン戦のような密着マークから解放され、フリーでボールを受ける回数が増え、前線に決定的なパスを何本も配球した。
そんななか、攻守で最もいい動きを見せたのが、右サイドに入った長谷川だった。矢のような突破力で何度もチャンスを作り、攻撃を引っ張った。
オフトの大胆な策がハマった日本は、前半28分、ラモスのFKからカズがヘディングシュートを決めて先制した。後半6分には、中山が追加点を挙げて北朝鮮を突き放した。
吉田は、この中山のゴールがうれしかったという。
「中山はイラン戦でもゴールを決めたんですが、やっぱり(彼のゴールは)特別なものがありました。当時みんなはJリーグの選手で、(中山と)僕らふたりはヤマハでプレーしていて、Jリーグ加入前のJFL(ジャパンフットボールリーグ)にいたんです。それで、みんなでご飯を食べに行った時とか、『Jリーグのオレらが(食事代を)出すよ』とか言われて、結構イジられていたんです(笑)。
そんななか、下部リーグにいる自分たちでも"やれる"というところを見せたかったですし、中山にはゴールを決めて(代表でも)主力になってほしいなって思っていた。だから、中山が2試合連続でゴールを決めてラッキーボーイ的な存在になっていったのは、ホントうれしかったです」
その中山の気迫あふれるプレーと諦めない姿勢で奪ったゴールによって、勢いに乗った日本は3-0で北朝鮮を破り、勝ち点2を得た。吉田は、チームが土壇場で踏みとどまったことに少し安堵したという。
「負けられない試合で勝てたのは大きかったですね。しかも、(最終予選初出場の)勝矢さんが守備で奮闘し、中山も高木に代わってスタメンとしての役割を果たした。短期決戦の大会には流れがあるので、そういった選手が出てこないと勝つのは難しい。そういう意味では、日本は勝ち方がよかったですし、いい流れで(次戦の)韓国戦に臨めるようになりました」
ただ、森保が終了間際に不必要なファウルでイエローカードをもらって、韓国戦は累積警告による出場停止となった。ここまで中盤を支えてきた森保の不在は、非常に痛かった。それでも吉田は、「ある選手が入れば問題ない」と感じていた。
勝負の韓国戦。その選手がすばらしい活躍を見せることになる。
(文中敬称略/つづく)
吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。
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