1993年のW杯アジア最終予選、大一番の韓国戦で吉田光範が開始5分で「勝てる」と思ったわけ

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(3)

◆(1)いぶし銀・吉田光範とオフトの間にあった信頼関係>>

◆(2)吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話>>

「最終予選、最大のヤマ場だと、みんな、感じていたと思います」

 アメリカW杯アジア最終予選第4戦の韓国戦は、まさしくアメリカ行きの切符をかけた"大一番"だった。

 日本代表の指揮官ハンス・オフトは、3-0で快勝した北朝鮮戦で起用した3トップ、三浦知良(カズ)、中山雅史、長谷川健太の3人をそのまま起用。中盤は、累積警告による出場停止となった森保一に代わって北澤豪が入り、逆三角形の布陣で吉田光範が左、北澤が右、ラモス瑠偉をアンカーに配置した。ラモスをアンカーの位置に下げることで、相手のマークを軽減し、できる限りフリーでボールを配球できるようにした。

「この大会では、福田(正博)の調子があまりよくなかったんですよ。一方で、キーさん(北澤)はすごくコンディションがよかったので、韓国の運動量や強さに対抗するには、一番いい人材だと思っていました。

 ラモスさんには、韓国の攻守の要となる辛弘基がベタづきしてくるだろう、という予想もあって、そこがどうなるか。(試合が始まってからは)展開を見ながら、ラモスさんと僕のポジションを変えてもいいかな、と思ってプレーしていました」

最終予選全5試合に出場し奮闘した吉田光範だったが... photo by Kaz Photography/Getty Images最終予選全5試合に出場し奮闘した吉田光範だったが... photo by Kaz Photography/Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 予想どおり、ラモスには辛がマンマークでついてきた。だが、日本の「10番」が下がってプレーし、そこに辛がついてくるため、韓国のバイタルエリアにスペースができた。北澤がそのスペースを効果的に使って、日本の攻撃を引っ張った。

「試合開始から5分ぐらい経った時だったかな。テツ(柱谷哲二)と『これは勝てるわ』っていう話をしたんです。

 正直、韓国がしっかりと守備ブロックを敷いてカウンター狙いに徹してきたら嫌だなと思っていました。フィジカルでは日本より勝っていますし、やり方がはっきりしている時の韓国は強いんです。

 でも、(韓国が)ラモスさんにマークをつけてきたので、僕らが動けば韓国の動きをコントロールできる。韓国はマイボールになっても、ラモスさんについている辛が本来いないといけないポジションにいないので、うまく(攻撃を)展開できない。その分、自分たちが有利に試合を運べた。

(韓国が)どこかで(やり方を)変えてくるかなって思っていたけど、韓国は動かなかった。このままうまくいけば、『勝てる』という自信がありました」

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