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1993年のW杯アジア最終予選、大一番の韓国戦で吉田光範が開始5分で「勝てる」と思ったわけ (4ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 ハーフタイム、ロッカールームに戻ってきた選手たちは興奮し、それぞれ言いたいことをまくし立てた。それを見かねたオフトが「静かにしろ!」と大声で怒鳴ると、誰もが我に返ったように冷静さを取り戻した。

「あと45分。死ぬ気で頑張ればアメリカに行ける――そういう気持ちの高まりがありました」

 ラモス以外、自分たちが世界への扉の、すぐ手前まできていることに気持ちの高ぶりを抑えきれなくなっていた。だが後半9分、その気持ちに冷水をかけるかのように、イラクが同点ゴールを決めた。

「ただ、追いつかれたのは、後半の早い時間。まだ時間はあるし、ダメージはそれほどではなかった。

 失点はテツがクロスにかぶったんですが、普通ならボールに触れていたと思うんです。でも、ドーハにくる前まで(柱谷は)肝炎で静養し、急ピッチでコンディションを回復させてきた。厳しい試合の連続で相当疲弊していたと思う。

 もちろんテツだけじゃく、僕らみんな、動きが鈍くなっていた。逆に、イラクの選手たちは動けている。負けてはいないけど、追い込まれていく感じがすごくありました」

 プレーが途切れた時、吉田はベンチを見た。この状況を変えるため、オフトは誰を投入してくるのだろうか。吉田は、ある選手の投入を望んでいた。

(文中敬称略/つづく)◆ドーハの悲劇が起こる直前、「武田修宏はドリブルしていった...」>>

吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。

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