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いぶし銀・吉田光範とオフトの間にあった信頼関係「監督はこういうことまでやるんだ、と思った」

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第27回
全5試合出場のいぶし銀が体感した「ドーハの悲劇」(1)

「どこも日本をマークしてくる。初戦から非常に難しいゲームになるな」

 1993年10月に行なわれたアメリカW杯アジア最終予選。カタールの首都ドーハに入る前、日本代表のボランチ、吉田光範はそう思っていたという。

 当時のW杯最終予選は現在のホーム&アウェー方式とは異なり、ドーハでのセントラル開催だった。6カ国による総当たりのリーグ戦で、上位2カ国がW杯の出場権を得るというレギュレーションだった。

 日本代表は1992年3月に就任したハンス・オフトが指揮。それ以前にJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハやマツダで指導していたオフトは、日本人のメンタリティや国民性をよく理解し、チームとしての約束事を徹底。「トライアングル」「アイコンタクト」「スモールフィールド」といったキーワードを巧みに使って、チーム作りを着々と進めていた。

 そして、1992年夏のダイナスティカップで優勝。10月~11月に日本で行なわれたアジアカップでは、決勝で強敵サウジアラビアを破って初優勝を遂げた。

 それまで、アジアにおいても中東の各国や韓国の後塵を拝してきた日本だが、プロサッカーリーグ(Jリーグ)の発足を目指すと同時に代表強化にも本格的に着手。初の外国人監督を招聘し、1993年のJリーグ開幕を前にして、代表のチーム力は右肩上がりで伸びていった。

 そんななか、地元開催のアジアカップで優勝。Jリーグ開幕で国内のサッカー熱も高まって、アジア各国は日本への警戒をかなり強めていた。

初戦のサウジアラビア戦に挑む吉田光範(中央)。前が高木琢也、後ろがラモス瑠偉 photo by Kaz Photography/Getty Images初戦のサウジアラビア戦に挑む吉田光範(中央)。前が高木琢也、後ろがラモス瑠偉 photo by Kaz Photography/Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る 迎えたW杯最終予選。日本の初戦の相手はサウジアラビアだった。

「サウジとはアジアカップの決勝で対戦していたので、どんな相手なのかはだいたいわかっていたんですけど、最終予選は中東での開催。相手にとっては、ホームみたいなものじゃないですか。何をしてくるのかわからない怖さがあったので、チーム内は結構緊張感が漂っていました」

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