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いぶし銀・吉田光範とオフトの間にあった信頼関係「監督はこういうことまでやるんだ、と思った」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

 試合前など、吉田は森保や柱谷らとしっかりコミュニケーションを取っていたが、守備面において細かいことを詰めて話すことはなかった。長く代表で一緒にプレーし、お互いに信頼しており、各々のプレーや能力について熟知していたからだ。

 監督のオフトからも、特別に何か言われることはなかった。吉田とオフトの間には、確固たる信頼関係があった。

「僕はオフトが監督になって代表に呼ばれるようになったんですが、最初の頃はスタメンじゃなかったんです。アジアカップ準決勝の中国戦とかも、ベンチでした。

 ただその時、オフトから全体ミーティングの前に電話がかかってきて、そこで(自らに代わって出場する)北澤の起用と、その戦略的な根拠を教えてくれたんです。

 それで(自分が外れる)理由がわかったので、僕は『次の準備に入ります』とオフトに伝え、すぐに気持ちを切り替えることができました。その際、オフトの自分への信頼が伝わってきましたし、監督はこういうことまでやるんだ、と思いました」

 オフトは、いぶし銀の働きを見せる吉田を高く評価していた。最終予選では全5試合、すべてスタメンで起用した。

 サウジアラビアとの激戦は、吉田と森保の奮闘、さらに最終ラインの踏ん張り、GK松永成立の好守などもあって、なんとか0-0の引き分けで乗りきった。

 オフトは試合前、「全力で勝ちにいく」と述べていたが、初戦のドロー発進にはまずまずといった表情を浮かべていた。吉田も引き分けという結果は悪くないと思っていた。

「福田の決定的なシュートがあったり、僕も『入れておけば......』というシュートが1本あったんですけど、勝ち点1というのはスタートとしてはまずまずですし、内容的には悪くないと思っていました。ただ、初戦を引き分けたので、次のイラン戦は勝たないといけないというのは、僕だけではなく、みんな、そう思っていたと思います」

 試合後のロッカールームの雰囲気も悪くなかった。しかしながら、スタメン11人で90分間フルに戦って、オフトは交代枠をひとりも使用しなかった。その後、中2日か中3日で連戦が続くことを考えると、選手の疲労蓄積が危惧された。

 それが、最終戦のイラク戦で表面化するとは、この時、吉田は微塵も思っていなかった。

(文中敬称略/つづく)◆吉田光範が明かすオフトジャパンの裏話>>

吉田光範(よしだ・みつのり)
1962年3月8日生まれ。愛知県出身。刈谷工高卒業後、ジュビロ磐田の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)のヤマハに入団。当初はFWでプレー。その後、中盤にポジションを移しても高い能力を発揮。攻守に安定したプレーを見せて、ハンス・オフト率いる日本代表でも活躍。1992年アジアカップ優勝に貢献し、1993年W杯アジア最終予選でも全試合に出場した。現在はFC刈谷のテクニカルディレクターを務める。

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