【追悼】2000年の長嶋茂雄は非情采配に徹した 優勝後「すまなかった」とミスターは選手の前で涙した (2ページ目)
実績十分のベテラン、斎藤雅樹にも槇原寛己にも、清原和博にも桑田真澄にも、長嶋はその言葉を伝えなかった。故障の癒えた清原をなかなかスタメンに戻そうとしなかったし、桑田は敗戦処理のマウンドへ送り出された。33歳になる"KKコンビ"はこの時、ベンチの長嶋と戦っていた。
選手とのコミュニケーションに関しては、2000年もホークスの指揮を執ってリーグ連覇を果たしていた王貞治が「"世界の王"のままではダメだ」「選手の目線まで下りていくべきだ」などと言われ続けてきたのだが、じつはなかなか選手のところへ下りていくことができなかったのは長嶋のほうだった、というわけだ。
しかし長嶋には、長嶋だけにしか背負うことができない宿命があった。
世界のホームランキングとなった王が抱いていたのは、バットマンとしての矜持だ。しかし"ミスター・ジャイアンツ"のみならず"ミスター・プロ野球"とまで称された日本球界の英雄、長嶋が背負っていたのは、野球人としての矜持だった。誇り高き指揮官は、その立ち居振る舞いさえも美学として貫いた。監督として選手と距離を取り、毅然としていなければ、あれだけの巨大戦力を使いこなすことはできなかったろう。
あと1イニング、あと1打席というところで交代を告げる非情な采配。このシビアさには選手たちも緊張感や競争心を抱かざるを得なかった。慢心しがちな実力者をあえて信頼しないことで、チームのなかに慢心を生まないように振る舞ったのである。
【勝つことでしか満たされない矜持】
天真爛漫、奔放に見えていた指揮官の、慎重なまでの危機管理。これが巨大戦力を腐らせずに栄冠を手にできた最大の原動力だったのだ。長嶋は勝つために、ジャイアンツのファンを喜ばせるために、孤高の指揮官を演じていたのである。
ベンチの長嶋は試合中、先を読みながら「ダメだ、これは打てないぞ」「おい、打たれるぞ、おまえには見えないのか、オレには見えるぞ」などとネガティブなことも口にしていた。コーチが何と言おうとも、いきなり投手を代え、早い回での前進守備を指示し、突然の代打を送る。そんな指揮官についていくのは容易なことではなかった。その戦術が裏目に出るたびに「長嶋さんの考えていることは長嶋さんにしかわからない」と揶揄されたりもした。
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