大学2年秋に悲鳴を上げた江川卓の右肩は「以来、100%元に戻ることはなかった」 (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 以前、サッカー元日本代表の小野伸二を取材した時に、「膝のケガ以降、自分のイメージを完全に表現できたことはない。本来の自分に戻ったことは一度もない」と語った言葉を思い出した。1998年に史上最年少の18歳で日本代表入りし、ワールドカップのフランス大会に出場。その翌年のシドニー五輪アジア予選のフィリピン戦で背後からタックルを受けて、左膝靱帯断裂の大ケガを負った。

 その後、懸命なリハビリの末に復帰し、海外のチームでも活躍し。日本人初のUEFAカップのファイナリストとなりタイトルも獲った。2002年日韓、2006年ドイツワールドカップにも主力として出場。サッカーファンに多くの夢を見させてくれた。それでも、小野にとってはかつての自分でなかったという。

 江川も同じだったのではなかろうか。大学3年になってからも圧倒的なピッチングで相手をねじ伏せ、東京六大学史上2位の47勝をマーク。

 その後、プロでも2年目から2年連続最多勝のタイトルを獲得し、3年目には過去に8人しかいない投手五冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最多完封)も達成。これだけの実績を挙げたにもかかわらず、肩の状態は100%でなかったという。小野と同様、これが天才たる所以なのだろうか。

 結局、2年秋のリーグ戦は9試合に登板して5勝3敗、奪三振70、失点21、防御率2.28と、4年間のなかでは最低の成績で、またしても優勝を逃した。この悔しさをバネに、江川は3年からすさまじいピッチングを繰り広げることになる。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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