飯田哲也が明かす野村克也監督との秘話 衝撃的なミーティングと「人生を変えたコンバート」 (3ページ目)
── ほかにコンバートして成功した選手はいましたか。
野村 髙津(臣吾)くんもそうです。もともと先発でしたが、抑えに転向して一時代を築きました。当時のストッパーと言えば、与田剛さんや大野豊さんといった150キロ級の速球投手がほとんどで、サイドハンドの技巧派のストッパーなど、なかなか思いつきません。
【講演会のようだった野村ミーティング】
── ヤクルト時代の野村監督といえば、ミーティングも印象深いです。野村監督はよく「人を遺す」ということを言っておられました。
飯田 野村さんがヤクルトの監督に就任した90年のユマキャンプ初日のミーティングは衝撃的でしたね。「自分はこういう野球をしていくよ」という野球の方向性の話ではありませんでした。「人間とは?」「組織とは?」といったことから、「プロ野球選手を引退してからのほうが人生は長い。プロ野球選手である前に一社会人であれ」という話まで、まさに人生論に近かったですね。それによっての人間形成が、「人を遺す」ことにつながっていたのだと思います。
── 故事成語がたくさん出てきたと聞きました。
飯田 一発目は、孔子の論語のなかから「耳順」でしたね。四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う。六十歳になると、修養が進んで聞いたことを素直に理解できるようになるということらしいです。
── "野村ミーティング"におけることを記した『野村ノート』は有名です。
飯田 キャンプ後半から徐々に野球のセオリーになっていくのですが、それを記したノートは今でも私の財産です。野村さんはとにかく話がうまい。毎日、講演会を聞いているようなイメージでした。
── 普段はどうだったのですか?
飯田 私服に着替えても、たとえば選手の結婚式のスピーチなど、それはもうすばらしいですよ。とにかく"お話し好きのおっちゃん"でしたね(笑)。
── 球春到来。キャンプも始まりました。
飯田 ご存命なら、今年数えで90歳の「卒寿」だったんですね。"野村チルドレン"である髙津くんがヤクルト、吉井(理人)さんがロッテ、新庄(剛志)くんが日本ハムで監督を務めています。天国からプロ野球を見守りながら、得意の"ボヤき"を発していると思います(笑)。
飯田哲也(いいだ・てつや)/1968年5月18日、東京都生まれ。拓大紅陵高3年時に春夏連続して甲子園に出場し、86年ドラフト4位でヤクルトに入団。捕手として入団するも、野村克也監督に俊足、強肩を買われ外野手に転向。91年から97年まで7年連続ゴールデン・グラブ賞を獲得し、ヤクルト黄金時代の名手としてチームを支えた。05年に楽天に移籍し、翌年現役を引退。引退後はヤクルト、ソフトバンクでコーチを務め、20年より解説者として活躍
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