飯田哲也が明かす野村克也監督との秘話 衝撃的なミーティングと「人生を変えたコンバート」 (2ページ目)
── かつて野村さんから「ワシが見てきた外野手のなかで、飯田がナンバーワンだ」という賛辞を聞いたことがあります。
飯田 初めて聞きました。うれしいですね。私としては、期待に応えようと必死でした。とにかくヤクルトは若い選手が多かったので、「プロとして、やって当たり前だ」と気を引き締めていたのでしょうね。楽天は何球団かの選手が集まったチームで、ベテラン選手も多く、それなりに気を遣ってくれていたのだと思います。
【野球人生を変えたコンバート】
── いまさらながら、捕手から外野へのコンバートの経緯は何だったのですか。
飯田 89年にセカンドを守って新人王を受賞した笘篠賢治さんが90年は不調で、私が代打に出て広島の川口和久投手からホームランを打ったんです。それでそのままセカンドを守り、29盗塁をマークしてレギュラーをつかみました。
── コンバートするにあたり「キャッチャーミットを2個4万円で飯田から買い取った。そのお金でグラブを買え」と野村さんが言ったとか?
飯田 それはマスコミ用のリップサービスですね。だって、私は4万円をいただいていませんから(笑)。
── その後、センターに移ったのはどうしてですか。
飯田 91年に、ナ・リーグ二塁手部門でシルバー・スラッガー賞を受賞した実績のあるジョニー・レイが入団。彼が外野を守ることを拒否したので、私がセンターにまわりました。その91年から7年連続してゴールデングラブ賞を獲ることができました。90年に古田さんが入団し、91年にレイが二塁に固執したことが、私にとっては幸いしましたね。
── 飯田さんは高校時代、捕手として甲子園に出場するなど大活躍しました。ポジションへのこだわりはなかったのですか。
飯田 捕手はチーム事情で守っていただけで、それまでは内野、外野を守っていましたから。それにしても当時のプロ野球はコンバートがほとんどなく、このポジションで頑張ってダメだったら終わりという選手がほとんどでした。でも、野村監督は「どうにかして選手を生かしてあげよう」という考えで、野球を見る目、慧眼は傑出していました。
2 / 3