イチローの天敵・西川慎一は妻に「5年間だけやらせてくれ」と懇願 大企業を辞め、26歳でプロ入りを果たした (3ページ目)
── 最近でこそ、セットアッパーがイニングをまたいで登板することが減りましたし、登板間隔の調整が行なわれるようになりました。当時はまだスペシャリストとして扱われてはいませんでしたね。
西川 そうですね。起用のパターンも決まっていなくて、「投げろ」と言われるところで投げるのが当たり前。そこでいい結果を残せなければ登板機会が減ることになります。だから、投球練習をしていなかったとしても、文句を言わずに投げる。「やらないと使ってもらえない」と思っていました。
── 気をつけていたことは何ですか。
西川 大事なのは初球ですね。自分の勝負球をどんどん使っていかないと苦しくなります。初球がすべてと言ってもいいと思います。中継ぎでお手本になる左ピッチャーもいなかったので、手探りでやっていきました。同じ左ピッチャーの大野豊さん(元広島)に憧れていましたが、マネできるような方ではなかったので。
【浮上のきっかけは小林繁コーチ】
── 西川さんが浮上したきっかけは?
西川 近鉄のピッチングコーチだった小林繁さんに気に入ってもらって、登板が増えました。1998年には61試合も投げました(防御率2.87)。
── 西川さんの1999年の推定年俸は2300万円。30歳を過ぎてから、やっと一軍で働き場所を与えられたんですね。
西川 もちろん、年俸をたくさんもらうにこしたことはないけど、やっぱり野球が好きなので、お金のことはあまり気にしませんでした。もちろん、上がるほうがいいですけど。
── 西川さんはよくオリックスのイチロー選手の打席でマウンドに上がりました。
西川 コーチからは「当ててもいいから、際どいところを攻めろ」と言われていました。当時のイチローは調子が悪い時がない。だから、足元に厳しいボールを投げて、調子を崩そうという狙いだったと思います。
オリックスの監督だった仰木彬さんには「わざとじゃないやろうな!」と怒られました。おそらく、3個くらいデッドボールを当てたと思います。イチローがメジャーリーグに行く時、『おまえも一緒にアメリカに行け』と小林コーチに言われたことを覚えています。
西川慎一(にしかわ・しんいち)/1967年2月26日、愛媛県生まれ。大洲農業高からNTT四国を経て、93年ドラフト2位(逆指名)で近鉄に入団。中継ぎの柱として、97年は51試合、98年にはチーム最多の61試合に登板した。2000年シーズン途中に阪神にトレード。02年に自由契約となり、広島にテスト入団を果たしたが成績を残せず、04年シーズン後に退団。引退後は実家の家業を継ぎ、現在は経営者として多忙な日々を送っている
『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』
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