藤浪晋太郎が明かした阪神時代に苦しんだ制球難 「眠れなかったり、夢でうなされて起きたり、円形脱毛症にもなったり」
大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜藤浪晋太郎 全4回(4回目)
#3:藤浪晋太郎が振り返る大谷翔平との対戦、春夏連覇、そして大阪桐蔭での3年間>>
2012年秋のドラフト会議で、大阪桐蔭のエース・藤浪晋太郎は4球団による競合の末、阪神への入団が決まった。
阪神時代の中盤以降は制球に苦しんだ藤浪晋太郎 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【入団1年目から3年連続2ケタ勝利】
1年目から10勝を挙げ、新人王はヤクルトの小川泰弘に譲ったが、巨人・菅野智之(現オリオールズ)とともに新人特別賞を受賞。2年目も11勝、3年目も14勝と、極めて順調なスタートを切った。
「プロに入ったら、金属バットを持った森(友哉/オリックス)みたいなバッターが1番から並んで、クリーンアップにはさらにエグい人がいるイメージだったんです。そう思って入ったぶん、もちろんすごい選手はいますが、そこまで大きな差を感じずにスタートすることができました。僕のなかでは、今もですが、森が最高のバッターだと思っているので......森のおかげです(笑)」
順調な歩みがずれ始めたのは、初めて2ケタ勝利に達しなかった4年目と思われがちだが、本人の感覚は違う。
「5年目の2017年からですね。4年目は、自分的には悪くなった。ただ、周囲からは2ケタに届かなかった2016年から悪いと言われ始めて......」
たしかに4年目の2016年は、169イニングを投げ、防御率は3.25。セイバーメトリクスの各数値から見る勝利貢献度も、投手陣ではチームトップだったという。しかし、内外から7勝という結果に不満の声が漏れ、契約更改ではダウン提示。
ついこの前のことのはずだが、当時のプロ野球は今ほど細かく数字を精査することはなく、とにかく先発なら勝ち星が大きな意味を持っていた。そんな時代のはざまで、藤浪の気持ちはくすぶり始めていったのか。
気持ちが入りきらないまま、さまざまなアドバイスを受けていると、フォームや体の使い方が、自分の思っているものとは違うものになっていることがあった。
この前後には、体の変調もあった。2015年シーズン終盤、右肩に違和感が出て、11月開催のプレミア12の代表入りを辞退。翌春のキャンプでも、右肩を気にしながら過ごした。
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著者プロフィール
谷上史朗 (たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。