石橋貴明が「鬼監督」をもネタにしたヤンチャな帝京高野球部時代。前田三夫は「面白いから文句は言えなかった」 (3ページ目)
王、長嶋、稲尾......さらに前田監督のモノマネ
前田監督の手元には、夏の合宿でトレーニングに励む石橋の写真も複数残されている。そして、合宿最後の夜は宴会部長となって大活躍。旅館の人をも笑わすほどの芸達者ぶりを発揮していたという。
ただ、レギュラーへの道は遠かった。ポジションは投手で、2歳年下で1980年春のセンバツ準優勝投手となる伊東昭光が入学してくる前まではAチームの一員だったが、3年になるとベンチ入りは叶わず。最後の夏は応援団長として神宮球場のスタンドにいた。
「石橋はね、BチームにいていつもAとは別の学校へ練習試合に行っていたんです。それで、引率のコーチの先生が帰ってきて言うわけです。あいつがバッターボックスに入ると、右打席なら長嶋(茂雄)さん、左打席なら1本足打法の王(貞治)さんのマネでバットを振るって。マウンドに立てば、今度は鉄腕と言われた稲尾(和久)さんのマネですよ。見ている人をその度に笑わせて、私はその報告をいつも呆れながら聞いていました(笑)」
石橋が芸能界デビューを果たしてからは、前田監督のモノマネも人気芸のひとつになっている。つまり前田監督は、凄腕指導者であると同時に、芸に取り入れやすいユニークなキャラクターの持ち主と言っていいようだ。
「あいつの前では何もできない、何かしたらすぐに拾われるって当時から思っていましたよ。冬の合宿は千葉の君ヶ浜海岸が恒例だったのですが、ある時、上空をアメリカ海軍のジェット戦闘機・ファントムが飛んでいたんです。私が指差して、ファントムだ!ファントムだ!って叫んだら、ネタにされました(笑)。でもそれが面白いから文句は言えなかった。天性のものですね」
この記事に関連する写真を見る とんねるずの相方・木梨憲武と、時折サッカー部の部室で芸を披露していたらしい。前田監督はそれを見たことはないが、石橋兄弟ら指導者になって間もない頃の教え子たちには、「一人ひとりに個性があり、勢いがあった」と感じている。
「目が離せないという大変さもあったけれど、今思うと笑える話がたくさんあって面白いです。今の時代は社会全体が変わり、子どもが窮屈ななかで生きているような気がします。可能性の芽を摘むようなことなく、のびのび好きなことに挑戦できる教育環境であってほしいと願っています」
ちなみに冒頭で紹介した、石橋が小学生の時に学ラン姿で応援した1枚は、前田監督の著書『鬼軍曹の歩いた道』の巻頭口絵に掲載されている。
終わり
前編<帝京名誉監督・前田三夫が指導者人生を振り返る。名将の礎となったのは「選手時代の万年補欠」>
【プロフィール】
前田三夫 まえだ・みつお
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校名誉監督。
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