山﨑康晃の逃げ出し事件、中村晃のジャンボ弁当箱、松本剛が大谷翔平から放った決勝打...帝京・前田三夫が回顧する教え子との思い出 (5ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

 ある日部室に顔を出さず、学校を飛び出して家に帰ってしまった山﨑。前田監督はその時、しばらくそっとしておいたようがいいだろうと考えた。でも、それを許さなかったのが山﨑の母。外がまだ明るい時間に帰ってきた息子を諭し、前田監督に電話。そして、山﨑を連れてすぐに学校へやってきた。

「お母さんはフィリピンの方で、ひとりで子どもを育てていました。この子が野球をやめたら生きていけない、山﨑の頑張る姿が生きる力なんだと必死に訴えてきたんです。その言葉を聞いて山﨑はいろんなことを思ったはずです。お母さんは話し終えるとそのままひとりで帰っていきました。以来、山﨑が泣きごとを言ったことはありません。だから最後にエース番号をつけることができたんです」

 もうひとつ、山﨑にまつわるこんなエピソードもあるという。それは、とある地下鉄の駅で、偶然制服姿の山﨑を見かけた時のこと。

「向こうは私にまったく気づいていない。帝京のTと入った帽子を被り、通学バックを肩にかけながら片手にはグローブをはめていました。制服服に野球帽なんておかしいから、私は追いかけて注意しようと思ったんです。でも、すぐに思いとどまりました。試合用のグローブを肌身離さず持つ姿から感じたのは、この子は誰よりも野球が好きなんだということ。だから何も言わず、その場をやり過ごしました」

 山﨑は高校を卒業する時点で、強くプロ入りを希望していた。だが実力、さらにプロの世界で生きるための精神力を考えた時、前田監督は現状ではとても無理だと考えていた。ドラフト当日、予想したとおり山﨑の名前は最後まで呼ばれなかった。本人の落胆は相当だったが、進んだ亜細亜大で山﨑は着実に力をつけていく。

「山﨑には運があった。亜細亜大ではのちにソフトバンクの看板投手となる東浜巨が上級生にいて、寮で同部屋になったんです。東浜の人間性はチーム内でも非常に高く評価されており、この縁が山﨑をひと回り成長させるきっかけになりました。

 思い出すのは、山﨑が大学で上級生になって久しぶりに神宮球場で顔を合わせた時です。監督さん、ご無沙汰しています、と。体がデカくなり、話し方も以前とは全然違っていた。しかも、たまには帝京に顔を出せと言ったら、教職課程を取っているから忙しいんだって言う。あの勉強が嫌いだった山﨑がですよ、驚きでした(笑)」

この記事に関連する写真を見る プロ選手となり8年。2年前に調子を崩した時は前田監督も心配したが見事復調し、さらなる高みを目指して山﨑の挑戦は続いていく。

 ところで山﨑は、子どもたちに夢を与える独自の企画を5年ほど前から行なっている。横浜スタジアム開催の試合で毎回5名ずつ、直筆サインを入れたグローブを小学生以下の子どもを対象にプレゼントして好評だ。

「気持ちの優しい選手だということですよね。自分を励まし続けてくれたお母さんが数年前に亡くなってしまったのは悲しい出来事でしたが、お母さんの思いを忘れずにこれからも精進してほしいですね」

後編<石橋貴明が「鬼監督」をもネタにした帝京高野球部時代。前田三夫は「面白いから文句は言えなかった>

【プロフィール】
前田三夫 まえだ・みつお 
1949年、千葉県生まれ。木更津中央高(現・木更津総合高)卒業後、帝京大に進学。卒業を前にした1972年、帝京高野球部監督に就任。1978年、第50回センバツで甲子園初出場を果たし、以降、甲子園に春14回、夏12回出場。うち優勝は夏2回、春1回。準優勝は春2回。帝京高を全国レベルの強豪校に育て、プロに送り出した教え子も多数。2021年夏を最後に勇退。現在は同校名誉監督。

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