山﨑康晃の逃げ出し事件、中村晃のジャンボ弁当箱、松本剛が大谷翔平から放った決勝打...帝京・前田三夫が回顧する教え子との思い出 (4ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

山﨑康晃の逃げ出し事件

 今年8月24日の阪神戦で史上8人目の通算200セーブを記録したのは、横浜DeNAでクローザーとして活躍する山﨑康晃。MLB挑戦も取り立たされ話題だ。24年前に横浜ベイスターズの佐々木主浩が達成した30歳6カ月を抜いて、史上最年少での達成である。亜細亜大を経てドラフト1位でプロ入りしたあとは、1年目から順調に活躍している。

 しかし、帝京高時代は140キロの速球を投げられても、エースナンバー獲得は容易ではなかった。というのも、山﨑は体がまだできておらず、ボールが軽いため練習試合でも簡単に遠くへ飛ばされてしまうことがよくあった。こうなると一発が怖く、主戦投手として使うのは難しい。

 ところが2010年の第82回センバツに出場した時、準々決勝の興南(沖縄)戦で2人目の投手としてマウンドに送ると、予想以上のピッチングをして前田監督を驚かせた。

「ある程度試合が決まっているような状況だったので、気持ちがラクだったのかもしれません。もともと気弱な一面があってそれも力を出しきれない一因になっていたのですが、この試合では吹っきれたようにいいボールを投げたんです。一皮むければいい投手になるなと、手応えを感じたことを覚えています」

 この時、山﨑は背番号10。そのあと夏までの間、主戦だった投手とエースの座を争い、最後の夏に背番号1を手にしたのが山﨑だった。甲子園には行かれなかったが、その頑張りを前田監督が認めたかたちだ。

 そんな山﨑の3年間で思い出すのは、「逃げ出し事件」だという。帝京ではいくら野球の強豪校になっても、本業である勉強もきちんとやらないと練習には出られない。

「ところが山﨑は勉強が苦手で、一時期宿題を山ほどためて教科担当の先生から注意を受けていた。そこで仕方なく、私が数日間グラウンドに出さずに部室で宿題をさせたら、監督が野球をさせてくれない、と。もうイヤだ、野球も学校もやめると言い出してしまったんです」

この記事に関連する写真を見る

4 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る