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選手がいなかった軽井沢高校。
ある女子マネの手紙から奇跡は始まった (2ページ目)

  • 清水岳志●文 text by Shimizu Takeshi
  • photo by Shimizu Takeshi

 そして1年の夏が終わり、3年生の正式メンバー4人と助っ人の2人がいなくなった。残ったのは2年生の選手と小宮山さんだけ。その頃は北部高校と坂城高校と連合チームを組んでおり、週末は北部高校のグラウンドのある飯綱町で練習を行なった。

「監督か部長かのどちらかの車で行っていました。軽井沢から1時間半かかるので、7時から練習が始まる時は5時には出ていました。帰りが夜の8時、9時を回ることも珍しくなく、つらかったですね。余計なことを考えずに、がむしゃらにやるしかなかった。それまであきらめる人生ばっかりだったから、絶対に辞めたくなかった」

 当時、部長を務めていた遠山竜太(現・屋代高校監督)によると、夏休みはほぼ毎日、その片道100キロの道のりを通ったと言う。

「2年生の部員が休んだ日は、小宮山と監督と私の3人で行きました。小宮山には『マネージャーも部員のひとり。将来のために、今は何をしてチームに貢献するか』と言って励ましていました」

 翌年春に1年生が数人入ってきたが、結局、ひとりしか残らなかった。2年の夏は、連合チームを組んでいた高校が単独出場することになり、軽井沢は出場辞退するしかなかった。

 そんな状況のなか、小宮山さんは、ときに部員と先生の間に入った。

「選手は辞める時、まず私に相談に来るんです。その時は『先生には言わないから、限界が来たら、もう一度言ってきて』と慰留します。それでもダメなら、先生に伝えました。選手とは、普段はLINEでコミュニケーションを取っていました。先生たちには相談できないことを、私には言えたようです。お母さん? よく言われますね(笑)」

 部員にとっては、こういう野球部で続けることに意義があるのかと、弱気になり気持ちが折れる時もある。教師にとっても、本当に引き留める理由があるのかと、悩むこともあった。そんな時、小宮山さんはお互いの意思の疎通が欠けていることに気づく。

「中間にいると感じちゃうんです」

 小宮山さんは、そんなぎくしゃくした関係の衝撃材になった。

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