アフリカから甲子園。おかやま山陽・堤監督の奇想天外な野球ロマン人生 (6ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami SHiro
  • photo by Kyodo News

 実はその時期、おかやま山陽は野球部内で問題が起き、監督が辞任。新たな人材を探していたのだ。理事長からも「誰かいないか?」の問いは、まもなく「教職を持っているならやってみないか?」に変わった。もちろん、堤の海外での活動を知ってのことだ。堤は当初、ビジネスマンと野球部監督の両立を考えたが、最後は監督になる道を選択した。

 そして2006年春、堤はおかやま山陽の監督となった。しかし、1年目に入部してきた選手はわずか3名。その後も、5~6年目までは選手に対しての言葉も思いも、なかなか通じなかったと振り返る。

「青春ドラマの先生みたいにやっていけば生徒もついてくると思ったんですけど......甘かったですね。あとになって思えば、あの頃は自分も地を出せていなかったし、野球も社会の授業もコピー&ペーストで薄っぺら。選手に響かなかったんでしょうね」

 徐々に自分らしさを意識するようになり、うわべだけの言葉を使うこともやめた。

「『悪いことをするな』と言っても、やめないヤツはやめない。なにしろ、自分の中学時代がそうだったのに、説得力がない。だから、極端に言えば『1つ悪いことしたら、2ついいことをしようや。でも、社会のルールに触れることだけはするな』と。言い方も考えて、変えていきました」

 今は部の雰囲気も落ち着き、野球好きの91人が大きなグラウンドで工夫に溢れた練習に励んでいる。1年生部員38人のなかには、堤の息子もいる。

「3、4年前あたりから本気でウチの野球部に対して、『いいですよ』『面白いところですよ』と言えるようになりました。赴任当初、部長と『自分の子どもが行きたくなるようなチームにしよう』と言っていたのですが、そんなチームになってきたと思います」

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