パリ五輪まで1カ月 山口香の提言「オリンピック精神の普及・啓蒙なくして、世の中のスポーツへの理解は得られない」 (4ページ目)

  • 西村 章●取材・文 text by Nishimura Akira

【スポーツの意義は正常な世界を見せること】

山口氏は、オリンピズムの啓蒙は粘り強く継続しないと本当の意味で普及しないという photo by sportiva山口氏は、オリンピズムの啓蒙は粘り強く継続しないと本当の意味で普及しないという photo by sportivaこの記事に関連する写真を見る
――競技はルールがあって、タイムや結果で勝敗がはっきりと示されるので、自分の力が衰えていて世代交代が必要だということもわかりやすいと思うのですが、社会全般の新陳代謝はスムーズにいくでしょうか。

山口:スポーツにできることって何かというと、正常な世界を見せることなんです。能力のあるものが先頭に立つ。そして、勝った人を称賛するけれども、一緒に頑張った人も讃えましょう、というふうに。じつはそういうことをスポーツは自らの裡(うち)に含んで見せているんですが、でも、それは教えなければわからないし、人にも伝わらない。いみじくもそう言ったのが、嘉納治五郎(柔道の創始者)なんです。

 柔道場で毎日汗を流して苦しい練習をやっただけでは、人間は育たない。なぜこんなに苦しい練習をするのか、そしてその先に何を目指さなければならないのか。人間を磨いて社会に貢献するエッセンスが柔道にあるということは、座学で教えなければ理解できない。そういう主旨のことを嘉納治五郎は言っているんです。

 オリンピックの場合で言えば、オリンピックムーブメント(※)です。私はJOC(日本オリンピック委員会)の理事を退任してしばらく時間が経ちますが、JOCはたしかにその啓発活動を行なっていると思います。ただ、オリンピックとはいったい何であるのか、どんな価値があって社会にどういう影響を与える存在なのか、ということをもっと日ごろから粘り強く世の中に広く伝え続けなければ、先ほども言ったように、結局は金メダルがいくつだということだけにメディアや観戦者の関心が終始することになってしまうわけです。

(※)オリンピックムーブメント......オリンピズム(「スポーツを通してこころとからだを健全にし、さらには文化・国籍といったさまざまな違いを超え、友情や連帯感、フェアプレーの精神をもって互いを理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」(JOCウェブサイトより)という思想)を普及啓蒙していく活動のこと。

 たとえば、JOCは昨年秋に札幌オリンピックの招致断念を発表しました。札幌市や市民の人々の意向、予算の問題などの理由があるのはもちろんですが、その根底にはJOCのムーブメント醸成が弱かったことも大きいのではないかと私は思います。

――札幌でやることの意義は何なのか、まるで伝わってこなかったですね。

山口:「今じゃなくてもいいだろう」「別にうちじゃなくてもいいだろう」と言われた時に、スポーツの感動とか子どもたちに夢を与える、という理由だけでは、説得力のある議論にはならないじゃないですか。だから、札幌の件はそもそもオリンピックムーブメントの浸透があまりうまく進んでいなかった、というのが私の理解です。

後編に続く

【Profile】山口香(やまぐち・かおり)/筑波大学体育系教授。現役時代は柔道52kg級の日本代表として多くの国際大会に出場し、1984年ウィーン世界柔道選手権優勝、1988年ソウル五輪で銅メダルを獲得。現役引退後は日本オリンピック委員会在外研修制度で1年間イギリスへ留学するなど見識を高め、指導者、大学教員の道に進む。一方で2020年6月まで10年間務めた日本オリンピック委員会理事をはじめさまざまな団体・協会で要職を務め、女子選手、日本のスポーツ環境の改善に尽力。東京五輪・パラリンピック時は「中止すべき」と意見を明言する一方、東京大会を取り巻くさまざまな課題点について積極的に発言を行ない、問題提起を行なってきた。

プロフィール

  • 西村章

    西村章 (にしむらあきら)

    1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)、『スポーツウォッシング なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』 (集英社新書)などがある。

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