パリ五輪まで1カ月 山口香の提言「オリンピック精神の普及・啓蒙なくして、世の中のスポーツへの理解は得られない」 (3ページ目)

  • 西村 章●取材・文 text by Nishimura Akira

【日本人が抱く自己イメージと実際の姿のズレ】

――期待をしたいけれども、本当に期待できるのだろうかという不安も、やはり拭いがたく残ります。

山口:ひとつだけ確かに言えるのは、『自国開催でなければ、こんなに気楽に見ることができるのか』ということはわかっていただけるんじゃないですか(笑)。パリ五輪の開会式では選手たちが船でセーヌ川をパレードしますが、現地のセキュリティ対応などはとても大変で難しいだろうと思います。でも、それに対して何かを思うにしても言うにしても、私たちは第三者なんです。つまり、みんなそうやって外側からオリンピックのきれいなところだけをずっと見てきたんですよ。開催国では様々な賛否両論があり、その時々の課題にも向き合っていますが、外で見ている人たちはそれらの問題に目を向けることもなく「よかったね」で終わってしまう。

 でも、そうやって外部の第三者としてパリ五輪を見ながら、自分の気持ちのどこかに「東京って何だったんだろう......」という思いを見つける人がいるかもしれない。そのときに、「コロナ禍がなければ、東京五輪もこれくらいうまくできたはずなのに......」と思うのか、それとも「コロナ禍がなかったとしても、ここまでのことをできたのか?」と思うのか。そこはよく考えてほしいところですね。

――「コロナ禍がなかったとしてもできたのか」とは、どういう意味でしょうか。

山口:たとえば汚職問題や開会式の演出問題、あるいはロゴの盗用疑惑など、東京五輪は開催前からいろんなことがあったじゃないですか。でも、それって全部、新型コロナウイルス感染症とは関係ないことばかりですよね。ともすると「東京五輪はコロナ禍で大変だった」とまとめられがちですが、問題の本質はそこではないだろうと私は思います。

 もしもこれから行なわれるパリ五輪を見た日本の人たちが「あぁ......、すばらしい大会だったな」と思うとすれば、それは「コロナ禍がなかったとしても、これだけのことを日本は果たしてできていたのか?」と私たち自身に返ってくる問いかけでもあるんですよ。

『スポーツの価値』(集英社新書)でも触れたことですが、おそらく1964年の東京五輪の成功が念頭にあって、「あの時にできたんだから今回もまたうまくできるよね」と思っていたのかもしれませんが、自分たちがもはや世界のスタンダードからズレ始めていることに気づいていないように思います。汚職や費用高騰はどの開催地でも問題になることですが、日本人は正直だとか真面目だという自己イメージと実際の姿は少し違ってきつつあるのではないか。そういう意味では、次の世代の人たちにバトンを渡す時期が来ていることを、そろそろ上に立つ人たちにも考えてほしいですね。

 でも、スポーツのよいところはそこなんですよ。実力主義の世界だから、15歳でも16歳でも速ければ、強ければ抜擢されますよね。そして、その子たちが経験することによって、さらに次の人たちも頑張るじゃないですか。そうやってスポーツの世界にできることが、なぜ社会ではできないんだ、ということです。これはスポーツ組織だけの問題ではなくて、日本社会全体の問題ですよ。日本は世界から置いていかれつつある、遅れ始めているという意識がないんですよ。でも、そこに気づかないとさらに遅れることになります。

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